「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

「日本一新運動」の原点―370

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 時局妙観

 5月14日(日)、東埼玉百人委員会・FB憲法9条の会主催の「連続市民講座」に招かれ、越谷中央市民会館で講演する機会があった。越谷市で政治集会に出たのは旧自由党参議院議員時代でおよそ20年ほど前だった。ずいぶんな変わり様でびっくりしたが、もうひとつ驚いたのは、長野県小渕沢からわざわざ私の話を聴きに参加してくれた婦人がいたことだ。日本の政治がどうなるか、暮らしの中から真剣に心配していた。以下、講演の要旨である。

 

(「日本の危機と共謀罪」)

1)時局雑感 国の内外で大事件が続発しているが、5月8日の衆議院予算委員会で、長妻氏(民進党)が、安倍首相の正常性を疑う「憲法改正発言」を追求。安倍首相が「読売新聞を熟読しろ」と答弁した問題の処理に絞って、満身の怒りをもって〝国会の脳死状態〟に抗議しておく。

 この発言は首相の答弁義務(憲法60条)を冒涜するだけではない。最高権力者たる総理が読売新聞の広告塔になり、マスコミ・マフィアのドンに支配されることを国民に公開した。しかも「熟読せよ」と質問者の能力を疑うように強要したことは重大問題だ。これは「侮辱」どころか人権の侵害といえる。さらに言えば長妻氏個人の問題ではない。国民の代表者という立場から国会への侮辱である。それは憲法の国民主権原理への冒涜といえる。

 この問題が国会でどのように処理されたか検証すると、現在の国会議員たちが議会政治の根本機能を理解していないことがわかる。野党側は安倍首相の発言の撤回を求め、問題は衆議院議院運営委員会での与野党協議となる。議運理事会に萩生田官房副長官が出席して経過や事情を説明する。この説明を野党側は「謝罪」と理解し「安倍発言の撤回要求」を「撤回」してしまった(朝日・5月12日)。

国会は正常化し、法務委員会の「共謀罪法案」の審議は再開された。私の怒りが収まらないのは、野党側の稚拙な対応が、結果として「安倍一強」をつくっていることだ。

 国会法120条には「議院の会議または委員会において、侮辱を被った議員は、これを議院に訴えて処分を求めることができる」と規定している。この運用については『衆議院先例集』に手続が書かれている。平成8年4月の衆議院議院運営委員会で、新たな処分要求の取扱いを決定している。それによると発言の取消などの処置を特別委員会を設置して審査することができることになっている。

 この方法で安倍発言を追求すれば、後半国会のイニシアティブを握れたはずだ。何故この方法を選ばなかったのか。気がつかなかったとか、知らなかったで済まされないことだ。それは民進党の性格による。要するに安倍発言「読売を熟読しろ」を、国会や国民を侮辱したものではないという判断があったからだ。単に不適切な発言という程度に考えていたことによる。なる程、司法試験レベルの法知識ではこうなるだろう。憲法を中心とする国会議事法規をこのレベルでしか考えない弁護士国会議員の影響によるものだ。

 国会議事法規というものは手続き法だけでできているのではない。大事なことは「戦時国際法」のような性格をもっているのだ。「頭を叩く代わりに頭を数える」という議会政治は、議事法規をめぐる「人間知力の闘争」なのだ。国会の機能の根幹を侮辱したと、どうして発想しないのか。こんなところに、民進党を中心の4野党の人間集団として幼稚さがある。

 私が事務局にいた時代は党より国会の権威を大事にする政治家が与野党にいた。この人たちに職を賭けて問題の本質を訴えると対応してくれた。現在の情況ではとても無理だろう。こんなところに、国民から国会の信頼を失う原因がある。

 

2)「共謀罪法」は戦時国家への総仕上げ

 国会審議や有識者マスコミ論調をみると「監視国家化」「自由の死滅」等々がある。その通りだが、何故「戦時国家への総仕上げ」と論じないのか。その論理なしに廃案にすることは不可能だ。平成25年から始まった「戦時国家への道程」を4野党の政治家も、日頃りっぱな発言をしている有識者もわかっていないようだ。

 平成26年の「集団的自衛権の容認」を憲法九条の解釈改憲で強行して以来戦時国家へのハード面の整備が急速に固まっていく。翌27年には自衛隊の海外派兵を含む「安保法制」が強行成立した。これで国民投票で決めるべき憲法改正の手続を経ず戦時国家のハードウエアは事実上修了だ。しかし、これだけでは戦争はできない。

 戦時国家として何時でも活動できるようにするには、ソフト面の整備がいる。まず国民の知る権利を制限する情報管理が必要だ。戦時国家の秘密を保持することが条件となる。それは平成25年の暮れに成立している「特定秘密保護法」である。それだけでは十分ではない。国民は政府の意思に従って。戦時体制に協力することが必要である。当然に政府に抵抗する人々が出現する。そのために犯罪が実在しない段階で捜査や拘禁して、戦時体制に国民を強要する必要がある。そのために東京オリンピックを口実にして「テロ対策」と偽って共謀罪を企んだわけだ。

 

3) 共謀罪の本質

 共謀罪とは組織(2人以上)が、特定の犯罪について実行の前の共謀(相談・陰謀・準備・計画等)したことを犯罪として捜査できるようにすることである。日本国憲法は、戦前の治安維持法の共謀罪が、思想・良心の自由を否定して戦時国家となったことを反省し、第30条から40条に至る世界に誇る刑事・裁判規定を設けた。これは当時の金森憲法大臣が自己の体験をもとに共謀罪をつくりにくくするために立案したといわれている。

 しかし、特殊で重大な犯罪では例外がある。内乱罪や強盗罪などで、現行では23件ぐらいが対象になっているが、専門家から、先進国として適切なバランスと言われている。それを「テロ対策」として、277の法律に共謀罪を適用できるようにしようという政府案は、憲法違反以前の問題だ。

 テロの準備に対応するもので共謀罪ではない、と政府は嘘をついている。国連総会で決めた「パレルモ条約」を締結してテロを含む国際的犯罪組織を防止するためと安倍首相は国会で発言しているが、「パレルモ条約」は、テロ対策ではなく麻薬や密輸などマフィアの利益目的の犯罪を取り締まるためでテロ対策のためでないと、国連で立案した専門家は朝日新聞の取材に答えている。(5月5日朝刊)

 政府の狙いが戦時国家への総仕上げにあることは間違いないが、成立すれば直ちに影響が出るのは、政府の暴政と闘っている「辺野古等」沖縄基地問題、そして現在、市民運動にとって欠かせない「ネットの世界」が狙われ、大混乱となるだろう。

 

4)究極の共謀罪は治安維持法、その法源は「教育勅語」にあり!

 戦前の治安維持法の制定・運用の歴史を知れば、今回の「テロ対策」と称する共謀罪の正体を知ることができる。直接の動機は大正11年に共産党の非合法組織に対応するためだ。同14年に「普通選挙法」と取引して成立した。要点は「天皇制の廃止と私有財産制を否定」する二つの行為の協議・計画・煽動等を犯罪とすること。現在の277の犯罪と比べ初期の治安維持法は法理論としては筋が通っていた。

 ところが昭和に入り、軍部や官僚が天皇を利用して政治を牛耳るようになると議会の審議なく勅令で死刑の設置など改悪を断行。その後拡大解釈や乱用により、「思想や良心の自由」を制約し、満州事変など戦時体制をつくっていく。それを国民が受け入れる背景に『教育勅語』による思想や信教に対する強要があった。

 昭和9年に発行された『教育勅語の話』では、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ・・・・」の説明に、「もし戦争が起こるとか、その他、国に大事件の起こった時には命を投げ棄てて、天皇陛下の御ためにつくし・・・・、まごころからご奉公申し上げなければなりません」とある。

『教育勅語』発布は「教育」の名目で、明治憲法で発足した議会政治を自由民権や啓蒙思想で混乱させないための国民に対する道徳律の強要でありこれが共謀罪の法源だ。 敗戦後『教育勅語』は文部省令で廃止されたが、民主化に馴染まない国民に新憲法の基本原理(平和・国民主権・基本的人権)を啓蒙する必要があった。そのため第2国会に衆参両院で「教育勅語等の排除・失効等の国会決議」が行われた。現在の「安倍一強・教育勅語政治」を打破するため、両院決議の再確認が必要ではないか。戦前の朕は「天皇」だったが、戦後の朕になろうとする「安倍」を、このまま放置して良いのか。 

             (「国会つれづれ」は休みました)

「日本一新運動」の原点―369

            日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 時局妙観

(憲法70年5月3日体験記)

1)第8回かしわ市市民憲法集会に参加して!

 

 柏市民文化会館に開会の30分前に着くとほぼ満員で席が埋まっていた。若手憲法学者として知られている首都大学東京教授・木村草太氏の講演というので興味があった。東京大学・憲法学の本流で育った学者で、テレビや新聞論調で活躍していて、生の話を聞くのは始めてだった。

 衆議院事務局勤務時代、仕事がら東大の憲法担当教授と接触する機会が多かった。昭和五〇年代には芦部教授と直接議論した。60年代には樋口教授と法制局を通じて論争したことがあった。国会の権限や運営上の問題で、憲法運用の限界がテーマであった。その時に感じたのは、東大には「天皇機関説事件コンプレックスが未だに続いている」というものであった。

「天皇機関説事件」とは、大正デモクラシーで明治憲法の運用で確立した「天皇は法人たる日本国家の機関である」という美濃部達吉東大教授の学説を、昭和十年、軍部を中心に右翼から弾圧され不敬罪に問われて、貴族院議員を辞任するという学問の自由が失われた事件である。

 この事件で東大を始め、憲法学者が戦争国家となる政治にモノが言えなくなる。そのため憲法学者が採用したのが、憲法の解釈運用を文理・言葉に従い忠実に解釈するという方法であった。法を政治的判断等から離れて純粋に捉えようとするケルゼンの純粋・実証法学であった。ケルゼンの狙いはナチズムを批判して、民主主義を確立するための学説であった。

 日本が敗戦で新憲法を制定してケルゼン学説は日本の憲法学の主流となる。ところが国会の運営とか米ソ冷戦の中の安全保障の現実の中で混乱と論争が起きる。代表的な例は憲法9条であった。これを厳格な純粋法学で解釈運用する論、現実を超えて乱用する論、可能な限り理念と現実を調和させて運用する論、さまざまである。私が体験的に言えることは、9条の文言に拘り厳格な文理解釈して護憲活動することが、かえって政治的な効果を生じケルゼンが期待した健全な実証法学とならなかったことだ。宮沢俊義という戦後憲法学の大御所に連なる学者に見える現象で、私はこれを「天皇機関説事件コンプレックス」と批判していた。

 木村教授の演題は『なぜ君は憲法に興味がないのか』というもので、憲法の興味のある人たち千名の前で失礼な話と感じた。そこは「興味のない人たちに伝えて欲しい」ということだったので、これ以上は言わない。話の内容として、9条を中心に安倍政治の問題点を指摘していたことは評価したい。当面の政治課題を憲法学の立場から論じていたことは、「天皇機関説事件コンプレックス」は解消していると感じた。

 敢えて注文をつけると、欧米の価値観による護憲論がベースにあり、日本人の価値観=日本の歴史で「戦争放棄・生命が第一」という主体的な発想がなかった。そこに護憲運動が「共同幻想」となって、日本の民衆の心に実感として届かない限界を感じた。

 

2)「山城博治・沖縄平和運動センター議長を激励する集い」に参加して!

 

 5月3日午後6時から沖縄の米軍ヘリパット建設反対の抗議行動で、昨年10月に微罪逮捕されて5ヵ月間も拘留された「山城議長」の激励会に顔を出した。この種の会合に出たことはなかったが、呼びかけ人の藤田高景・村山首相談話の会理事長から「たまには現場の人間の苦労話も聞け」と引っ張り出されたが、大変勉強になった。会場の中華料理店は百名を超える同志であふれ、山城議長のユーモアあふれる苦労話と、これからの活動方針を聞いて沖縄問題の困難さを改めて知った。それにしても山城議長の全身に「オーラ」とは違う、仏像から出るような不思議な鋭さと柔らかさの光を感じ、民衆運動の勝利を確信した。

挨拶に指名され「藤田理事長は山城さんと30年来の付き合いとのことだが、私は今夜始めて会って民衆運動は理屈では動かないことを80才を過ぎて知った」と、教育勅語の排除・失効両院決議の再確認をする国会請願運動を民衆の中で行っていくことを誓った。

 

〇 国会つれづれ  3

(「60年安保国会」を機に始まった国会運営の調査研究)

 

 60年安保騒乱は、戦後日本の政治・経済・社会を一変させた。岸政権に代わった池田政権はタカ派政治からハト派路線に激変し、とても同じ自民党政権とは思えなかった。これが自民党一党による「振り子政権交代」であった。池田首相は「寛容と忍耐」と、「所得倍増」を政治の柱とした。社会党も「米国の豊かさ、英国の議会民主政治、ソ連の社会保障」を国づくりのモデルにすると主張した。自民党は高度経済成長を目指しながら、地方農漁村への所得再配分に配慮した。政治闘争から経済闘争へ変化していく。

 こんな中で衆議院事務局も大きな影響を受けるようになる。安保国会で審議が紛糾していた頃の衆議院事務局の課長補佐以上の職員は学徒動員の経験者で、旧憲法で育った人たちが多く、新憲法や新しい国会法に馴染めなかった。昭和27年に講和条約で独立するまでは占領軍がいて、日本人の判断で国会運営をするようになって10年も経っていなかった。

 安保国会の直後に委員部に調査課を設けて新憲法と国会法による国会運営の調査研究を行うことになった。ここに本多(東北大博士課程)・桑形(京大博士課程)・私(法大修士課程)の3人が配置された。調査課で最初の作業は、国会図書館にある戦後刊行された専門雑誌から、国会運営関係の論文を集録することであった。

 約3千冊の学術専門雑誌と総合雑誌から議会政治論や国会運営手続論文をピックアップしてコピーで全文を集録する作業だった現在のコピー機とは異なり、俗に言う「青焼きコピー」といい、湿式で現像液を要する機能で手間が大変だった。6ヵ月ほどして現在のコピー機の原型となる機材が富士ゼロックスから売り込みがあったがリース代が巨額で、会計担当の庶務部が応じない。

 作業現場で苦労している私が委員部長に直訴することになった。前庶務部長の知野虎雄という実力者だ。技術的な知識のない私が説得できるはずもない。「富士ゼロックスの特長をひと言でいえば」と口頭試問となる。私が答を間違えて「エロクトロニクスによる技術です」というと大笑いとなった。正解は「エレクトロニクス」だ。この話を委員部長が、剽軽(ひょうきん)な久保田事務次長に話したところ、話が拡がり私は笑い者になった。数日後「平野がかわいそうだ」との声が出た。結果は大成功で年間一千万円のリース代で事務局として契約した。

 口の悪い先輩からは「あれは平野がワザと間違えたのだ」といわれたが、ゼロックスコピー機の導入で助かったのは論文集録だけではなく、国会運営の資料づくりや効率化に革命的に役立った。吊られて私の人気も上がり、いい気になってコピー機の「ゼロックス」の張り紙にあるゼの濁点とロの文字に紙を張ったところ、女性職員から厳しく叱られたが、当時はまだ〝セクハラ〟という言葉さえなかった。

 論文集録が終わると、知野委員部長から出た命令は「国会法の逐条解釈を係長以上に分担させて論文を提出させる。企画事務管理を調査課で行え」ということ。明治時代に議会が開設して以来の大行事となった。国会法は補足を入れて133条ある。これを、当時30人ほどいた課長補佐と係長に割り振り、各条文の解釈に関わる論文要旨を転載して問題点を提起する企画をつくったところ、〝勤務評定〟をする気かと大騒ぎになった。

 さらに悪いことにこの時期、私が七等級から6等級を飛び超えて5等級の係長に昇進した。議会事務局開設以来初めてのことで、当然のことに職員組合は文句をいい係長待ちの先輩たちから仲間はずれにされた。末席係長なので、担当した条文は最後の補則で、第133条の「国会法規の期間計算」であった。このプロジェクトのために、私を係長に昇進させたわけで、衆議院事務局の嫌われ者となった。私も腹を決めて旧弊と闘う気になった。 国会法逐条解説の資料は、ワープロがない時代で各人が〝ガリ

版刷り〟で大量作成し、閉会中に知野委員部長以下、係長以上が出席した「国会法研究会」で各人が担当した条文を発表し、全員で自由討議を行った。上も下もない国会法規に対する討議は勤務評定ならぬ「人間評定」となった。 公務員の世界でこんなことができた時代でもあった。

(続く)

「日本一新運動」の原点―368

            日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 時局妙観

(「教育勅語」を問題を考える―3)

 

3)敗戦後「教育勅語」はどのように排除されたか!

 昭和20年8月15日日本は「ポツダム宣言」を受諾して敗戦となった。新憲法を制定して、民主主義国家として新しい国づくりが始まる。当然教育勅語は排除されなければならなかった。

 しかし政府は明確な措置を行わず、文部省令で教材にしないことや、式典で棒読を禁止することなどを行政措置として対応しただけであった。新憲法や教育基本法が制定され、平和主義・国民主権・基本的人権の原理で国家を運営する制度改革が次々と行われた。しかし、民主主義的な精神面の改革が十分ではなく、封建的な考え方が残り新旧の混乱が起こった。その原因は教育勅語にあった。部分的に真実性を持つ個所があり、「人間天皇」の宣言にも拘わらず「天皇神格化」が残っていて、なかなか消えない。

国際的にも問題になるし、民主化の妨げになって国家の意思として「教育勅語」の排除・失効の表明が必要となった。

 その方法として、衆・参両院は国会決議で対応することになる。第2回国会の昭和23年6月19日に衆議院で『教育勅語等排除に関する決議』、参議院で『教育勅語等の失効確認に関する決議』が、それぞれ全会一致で可決された。

 この両院での決議の歴史的意義についてほとんどの有識者が無知である。日本国憲法も教育基本法も、敗戦後の帝国議会で審議され、制定されたものだ。そこで日本の民主主義改革の原点が定まったわけだが、新憲法下の国会で国の基本原理を確認する決議は、この「教育勅語」の排除・失効の決議だけである。なお衆議院での決議案の提案理由説明で、教育勅語の内容にある真理性の文言を認める考えに対して、「勅語が持つところの根本原理は、憲法98条に副わない」として国会決議によって退けていること

が、きわめて大事なことである。

 

(「教育勅語の排除・失効両院決議」を再確認する請願運動の必要性)

 

 森友学園問題は、安倍首相に忖度した財務官僚が、国民の資産9割も値引きして払い下げたことで批判の的になている。これには権力の私的乱用とか、官僚の質の劣化とか、行政改革の不徹底などさまざまな問題がある。私が論じたい最大の関心は幼稚園児の「教育勅語」の集団暗誦の疎ましいテレビ映像である。

 平成24年12月の安倍政権の復活は野田民主党政権の消費税強行導入が直接の原因であった。その背景には小泉自公政権以来の右傾化の政治風潮があった。日本会議などの戦前回帰運動が民衆の中に拡がり、近隣諸国の人々に対する〝ヘイトスピーチ〟による排外運動などである。それを支えていた思想は「教育勅語」の復活であった。一部の教育機関や出版では、教育勅語の内容を現代に都合よく適応させる活動が盛んになっていた。

 第2次安倍政権になってからの安倍政治をひと言でいえば『教育勅語政治』といえる。教育勅語といえば「個人の思想と良心の自由」を否定し「忠君(安倍)愛国」の精神で戦争に臨むというものである。憲法9条を解釈改憲して戦争法制を強行成立させた。特定秘密保護法の成立は政府権力に情報管理を独占させ、共謀罪は、国民うけを狙って〝テロ対策〟と詐って強行成立させようとしている。

 共謀罪は、戦前の治安維持法の復活であり、教育勅語の個人の思想と良心を否定を法源とし、戦時体制に必要不可欠なものだ。東京オリンピックを大義名分としているが大いなる見当違いだ。朝鮮半島のクライシスの暴発が先になる可能性がある。マネーゲームならぬ「ミリタリーゲーム」に変質した現代資本主義社会で、トランプ米大統領のお先棒を担いでいると、太平洋戦争で中止となった東京オリンピックの二の舞になりかねない。

 考えてみれば、沖縄辺野古などの基地問題や原発再稼働・推進問題。アベノミクスによる格差拡大、さらにお友だちの学校法人に公有地を無償として税金をくれてやる政策も、教育勅語の一環と思えばわかりやすい。これに対抗するためには、「教育勅語の排除・失効両院決議」の再確認をする国会請願運動が必要である。これに国会が応じないなら、日本の議会政治は死滅したといえる。

                           (終)

 

〇 資 料

 

敎育ニ關スル勅語

 

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國軆ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣ノ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重ジ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治23年10月30日

御名御璽

 

〇 第2回国会 昭和23年6月19日 衆議院本会議

教育勅語等排除に関する決議

 民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の改新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となっている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。

 思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すものとなる。よって憲法第98条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。

 右決議する。

 

〇 第2回国会 昭和23年6月19日 参議院本会議

教育勅語等の失効確認に関する決議

 われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。

 しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。

 われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する。

 右決議する。

「日本一新運動」の原点―367

            日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 時局妙観

(「教育勅語」を問題を考える―2)

 

2)有識者の歴史観に問題あり!

 4月19日(水)の朝日新聞(朝刊)『耕論』で、「教育勅語の本質」が採り上げられていた。東大名誉教授・三谷太一郎氏と、日大教授・先崎彰容氏の論調である。三谷氏は1936年生まれで教育勅語の教育を受けている。先崎氏は1975年生まれで、教育勅語に対する実感的なものはない。

 三谷氏は「良心の自由を否定する命令であった」とし、現憲法19条に反すると、憲法政治学者の立場から論じている。先崎氏は「不安の時代を画一化する兆しとなる」と、日本思想史の研究者の立場から、今回の教育勅語騒動は掘り下げて危険性を考えるべきだと論じている。この両氏の主張については賛同するが両氏の論で共通しているのは、教育勅語の成立過程、つまり、立案者である「井上毅」に対する歴史観である。

 三谷氏は、起草に関わった(法制局長官)井上毅の手法について「〝臣民の良心の自由〟に介入することを法的に整合性がとれた形でどう説明するか、頭を悩ませていた」とし、井上が考え出したのは「社会に向けて公表される天皇の〝著作〟で、それを臣民が自発的に共鳴する、という法理論的整理で〝苦慮の奇策〟とのいうべきフィクション」と分析している。そして、今回の教育勅語騒動について、憲法19条の立場から「安倍内閣は、それをまったく念頭に置かず、教材として使えるという閣議決定をしました。せめて明治時代の井上法制局長官の問題意識を共有すべきだ」と論じて、井上を評価している。 先崎氏は「井上毅は〝立憲主義を守る〟ことと〝国民の内面の自由を確保する〟という二つを重視し、教育勅語が明治憲法に違反しないよう心を砕いていた」とし、井上は勅語が人々の心の自由を奪わないよう、針の穴を通すような努力をして、慎重に文章をつくり上げようとした」と、同じく井上の手法を評価している。

 井上毅については、伊藤博文のもとで明治憲法の起草にあたり、開明官僚として活躍したことは私も承知している。だからといって、三谷氏や先崎氏のように、井上を評価するわけにはいかない。井上が天皇の神格化と臣民の基本権を「苦慮の奇策」で教育勅語というフィクションをつくったことが、天皇を「現人神」とする悲劇の源となったのだ。井上が〝福沢諭吉恐怖症〟であった話を知らないようだ。

 教育勅語が発布された翌年の明治24年、第一高等学校講師の内村鑑三は教育勅語に対する拝礼を拒否したために、不敬罪として職を追われた。当時、進歩的有識者や開明官僚と呼ばれた人たちが、次々と井上の奇策に乗り勅語の支持者となっていく。明治27年に日清戦争が始まり、日本国内が戦時体制となるや「忠君愛国」は勝利のためのナショナリズムを高揚する旗手となる。

 福沢諭吉は明治31年に病に倒れたが、門下の高弟に『修身要領』を編纂させ「独立自尊」を徳目の基本とすることを主張した。これは「教育勅語」の支持者・井上哲次郎らと大論争となるが、東アジアの緊迫で福沢の主張は退けられていく。こうして、明治37年には「日露戦争」が始まる。日露戦争が終わるや、「日清・日露戦争の勝利」は「教育勅語」の功績という世論が拡大し定着していく。

 時代は「大正デモクラシー」となる。天皇機関説・民本主義・社会主義等の民主化運動の流れが始まる。しかし、天皇制廃止を主張する共産党対策のためとはいえ、制限的普通選挙制度と取引で「治安維持法」が制定される。これは「教育勅語」から影響を受けたもので、根拠となったといえる。昭和に入ると軍部と官僚の政治支配が次々と戦時体制をつくっていく。その原因をつくったのは戦争を金儲けの手段とする資本や堕落した政党にあるといえる。

昭和10年には国体明微問題即ち、「天皇機関説」の提唱者・美濃部達吉が不敬罪で告訴される。貴族院議員を辞任し不敬罪は起訴猶予となる。翌11年には「2・26事件」による武装反乱が突発する。こうして、中国への宣戦布告なき戦争から太平洋戦争に至り、教育勅語でがんじがらめにされた若者が戦地に送られ、「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいくことになる。今の北朝鮮が同じような情況といえる。

                          (続く)

 

〇 国会つれづれ  3

(「60年安保国会」をめぐる悲喜劇!)

 

 「60年安保国会」で私は初めて日本政治の現実を実感できた。それは、林譲治元衆議院議長による「2年間政治の現場をみて、それでも共産党に入る気なら親父を説得してやる」という謀略?に乗ったからだ。現場とは、衆議院事務局で、それを仕組んだのは吉田茂家の家老職で東京では私の親代わりの依岡顕知氏だった。林譲治・益谷秀次と2代にわたって衆議院議長秘書を勤めた人物だ。私は昭和34年の11月頃には修士論文を書き上げて、安保反対運動に専念していた。そこを依岡氏のシナリオで〝高卒〟という〝学歴詐称〟の資格で口利き就職し、勤めることになった。

 最初に政治の紛糾現場を経験したのは、同年11月27日、安保改定反対の総評や全学連のデモが国会周辺に押しかけて、その先頭にいた浅沼社会党書記長ら議員4名が、国会正門からなだれ込む事件であった。「国会構内乱入事件」として、浅沼書記長ら4名は懲罰委員会に付されることになる。

 衆議院事務局には、本会議の運営事務を担当する議事部、委員会(当時、常任委員会・特別委員会合わせて26)の運営を担当する委員部、他に警務部、記録部、そして管理関係の部があった。私は委員部第一課に配属され、まさに政治の現場中の現場である。野党第一党の書記長を懲罰委員会に付すという、前代未聞の国会紛糾を体験した。

 年が明けて1960年1月20日、日米新安保条約が調印され、2月5日国会に提出された。11日には衆議院に「日米安全保障等特別委員会」を設置し「安保国会」が本格化する。私の仕事は、まず特別委員会運営の現場ではなく、後方支援事務で国民からの請願が安保特別委員会に付託されたものを整理する事務であった。

 合計して600万人をこえる国民からの「安保反対請願」を、毎日集計して分類する仕事である。当時は計算機などがあるはずもなく、ソロバン苦手の私にとって業務不能であった。それに密かに対応してくれたのが、隣の席の女性タイピストで、新入りの私が高い評価をうける実績をつくってくれた。

 その女性と2年後に結婚することになるが、一昨年3月に79才で急逝した「妻・操」である。私の人生は不得意なこと(英語やソロバンなど)が切っ掛けに、変化してきたといえる。

 昭和35年の所謂「60年安保」の国会審議は議会史に残るものであった。攻める野党も守る与党も死力を尽くした。 最後は20万人を超える国民が国会議事堂周辺を埋めるなか、衆議院に500人の警官隊を入れて野党の妨害を排除し、本会議を開会して新安保条約を強行採決した。参議院では審議がほとんど行われず衆議院承認だけで憲法の規定により自然成立した。

 この新日米安保条約について「日本の安全保障がその後確保される根拠となった」と岸首相を評価する論がある。それよりも、「安保国会」の審議で、野党から提起された問題点を、政府側が尊重せざるを得なくなったことにある。「条約の修正権問題」・「事前協議」・「極東の範囲」等がその後の東アジアの平穏状況を保ったといえる。国会で問題のある案件が強行成立しても、審議の内容によっては、施行後も大きな影響を与えることができるという好例であった。

「60年安保国会」は政局にも大きな影響を与え、岸首相が退陣し「寛容と忍耐」の池田勇人を首相とする政権に代わる。国民意識も変化し厳しい政治運動から生活向上運動が主流となる。国会でも従来の強行運営を反省し、国民から信頼される議会政治へと進化せざるを得なくなる。そのためには事務局の意識改革と専門的な知識の導入が必要となった。「安保国会」を機会に、大学院で憲法学や政治学を学んだ人材を採用することになる。

                          (続く)

「日本一新運動」の原点―366

            日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 時局妙観

(「教育勅語」を問題を考える)

 

 森友学園への国有地売却問題が発覚したことを切っ掛けに、この学園の教育方針に「教育勅語」が活用されていることが報道された。安倍首相夫妻がこの教育理念に賛同して、私立小学校設立に協力していると、学園の籠池理事長が国会の証人喚問で発言し、大騒ぎとなった。

 安倍内閣は「教育勅語」について、「憲法や教育基本法に反しない形で、教材として使用を認めること」を閣議決定した。義家文科副大臣が、幼稚園などの朝礼で朗読することは「教育基本法に反しない限りは問題のない行為であろうと思う」と、国会答弁している。安倍政権は稲田防衛大臣はじめ、日本会議メンバーの政治家が多い。森友学園の幼稚園児が教育勅語を集団朗読するテレビ画像で、印象を悪くすることを日本会議派は危惧していた。この閣議決定で「思いかけない成果」との評価が出て、教育勅語

を肯定する動きが始まった。

 一方で珍しく安倍政権と「お友だち関係」の〝読売新聞〟や、〝日経新聞〟は、この風潮を心配したようで〝朝日新聞〟らと同じ論調で批判の社説を掲載している。その点は評価するが、各メディアだけでなく学者・有識者の「教育勅語」についての基本的認識に問題がある。日本議会政治成立史の研究者として意見を述べておく。

 

1)「教育勅語」は同時に発足した帝国議会への勅語でもあった。

 

「教育勅語」が公布されたのが、明治23年(1890)10月30日だ。この前後に明治国家体制の大きな整備が行われている。まず、前年の2月11日(紀元節)に「大日本帝国憲法」が発布された。ところがこの帝国憲法が施行された期日について知っている人はほとんどいない。

 帝国憲法の上諭に、

「帝国議会ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議会開会ノ時ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有効ナラシムルノ期トスヘシ」

と定められている。

 第1回帝国議会の召集のため、明治23年7月1日、衆議院の第1回総選挙が行われた。貴族院は同年6月10日に多額納税者の議員の互選が行われ、7月10日に伯・子・男爵議員の互選、9月29日に勅選議員を選定して構成を終え、10月10日に、第1会帝国議会召集の勅諭が発せられた。11月29日に開院式が行われ帝国憲法はこの日をもって帝国議会の発足と同時に施行されたのである。

「教育勅語」は憲法が公布され、衆議院と貴族院の構成が終わり、第1回帝国議会の召集勅諭が発せられ、帝国議会の開院式、即ち憲法の施行期日が11月29日と確定した10月10日から20日後の10月30日に公布された。この流れは憲法の施行に先だって、即ち帝国議会の開会を待って教育勅語の公布が行われたといえる。

 かねてから天皇絶対主義者たちが、憲法施行で最も危惧したことは、制限的とはいえ〝議会政治〟が始まることであった。教育勅語は天皇制国家の法的機構の確立に伴う精神的支柱として天皇を神格化し、直接に臣民(国民)に下賜(くだしたまわる)したものである。それは「忠君愛国」などを内容とし「皇運ヲ扶翼」するのが日本臣民の存在理由であることを内容としている。平和主義・国民主権・基本的人権を拒否し、戦前の治安維持法の根拠となったものだ。「教育勅語」を単に学校教育や社会教育の理念

という「教育方法」という範囲に矮小化してはならない。教育という名目で帝国議会を構成する臣民の代表者への宣言という狙いがあったと考えるべきだ。

 当時、この教育勅語に対して多くの有識者たちから批判の声が挙がった。代表例は福澤諭吉である。その説話を紹介すると当時の状況がよくわかる。

 教育勅語の実質的な執筆者は井上毅(こわし)である。明治憲政史の専門家・大久保利謙氏によれば「井上は、福澤恐怖という病気にかかっている愚者だった」と私は直接に聞いたことがある。原稿執筆の際、福澤の「文明論の概略・学問のすすめ等」の国民を啓蒙した〝独立自尊〟の思想に対抗して作成したといわれている。帝国議会は制約はあったものの自由民権運動の思想も入っており、それらを制限する役割が教育勅語であった。「教育勅語」とは、このような恐ろしい非近代性と非人間性を動機としてつくられたものである。これらのことがほとんど知られていない。

                    (続く)

 

 

〇 国会つれづれ  2

(政治学修士コースで体験した政治)

 

 法政大学大学院政治学コースの2年間は私の人生の運命的転機であった。両親は、兄2人が医師であるのに、私に開業医の家業を継がせようとした。当時、教養学部2年を終えて医学部に受験する制度で、たまたま法政大に医学部だけの某大学と合併する構想があって、「医進コース」が設けられていた。絶対合格しないことを確信し、親に泣きつかれ法学部と併せて受験したところ、医進コースに合格してしまった。2年経て法学部に転入するつもりで、理科系の勉強をすることも何かの役に立つと思い一応親の

顔を立てた。ところが社会科学の勉強が不足していて、政治学修士学コースでは困った。

 ここで学問の厳しさを会得することができたのは大きな収穫であった。その上、大学院学友会(自治会)の委員長に左翼運動を知らない私が祭り上げられた。しかも、「60年日米安保条約改定」の2年前、政局の混乱が始まった時期であった。岸内閣が安保改定反対運動を取り締まるため、「警察官職務執行法改悪案」を国会に提出して大騒ぎとなる。

 この「警職法改正反対運動」を「日米安保条約改定反対運動」の前哨戦として、法政大学大学院学友会は、全国の大学院の自治会に反対運動の統一協議会結成を呼びかけ、50校が参加して統一反対運動を盛り上げた。「警職法改悪案」は戦前の治安維持法を悪質化したもので、岸内閣の池田・三木・灘尾の三閣僚が辞職する事態となる。「デートで捕まる警職法」というキャッチフレーズを流したり、反対の有識者・文化人を組織するまではよかったが、東京駅で特急はとや、つばめを線路に入って止めるなどは

批判を受けた。

 警職法改悪案は国民の総反対で審議未了となる。その後、共産党代々木派から私に入党を奨める人物が現れた。法大共産党細胞のトップだった。一高東大では上田耕一郎氏の同志で、メーデー事件で退学となり、法大の博士課程に籍を置く活動家だった。幹部候補として処遇すると熱心に説得されたが、「考えてみたい」と即答はしなかった。

 その後、連日のように説得を受けたがある出来事で日本の左派文化に疑問を持つようになった。昭和34年に〝ダライラマ事件〟が発生し、中国の『人民日報』が社説でダライラマ批判論文を掲載した。法大で行われた国際政治学者らの研究会で、私がその社説を論評・報告することになった。そこで毛沢東の『矛盾論・実践論』の方法論から「将来、中国とソ連など社会主義国家間で矛盾や対立が生じる」と結論づけた。参加した研究者のすべてから批判を受けた。私は左派学者のイデオロギーのドグマを実感し、社会主義や共産主義に関心を持ちながらも、その限界を知った。

 

(衆議院事務局に就職して学んだこと)

 

 政治学修士コースは2年で終わる。修士論文は英国の国際政治学者『EHカー論』で「政治における理想と現実の統合」であった。父親に「文化人類学」を勉強したいと頼んだが、〝共産党入党寸前〟との情報を知って許してくれず、吉田茂・林譲治という同郷の政治家に泣きついて就職させてくれと頼んだ。当時、吉田家の家老役を務めていた依岡顕知氏が、東京で私の親代わりで、林副総理・衆議院議長秘書・益谷衆議院議長秘書を勤めあげ、戦後の吉田政権の裏方で苦労人だった。

 衆議院事務局に勤めるについては、この依岡さんに散々苦労を掛けた。その裏話は『戦後政治の叡智』(イースト新書)『野党協力の深層』(詩想新書)に既述しているのでここではふれない。入局早々に偶然に学んだことを紹介しておきたい。

 60年安保改定の騒ぎの後、当時事務局が追い込みにかかっていた『議会70年史』の編集を約1年、私も参加することになる。大学院修士課程で、遠山茂樹氏の「自由民権史」のゼミに参加していたおかげで非常に役に立ち、星享の当選回数の公式記録が誤りだったことを発見したりした。

 実は前段の「教育勅語問題」でふれた福澤諭吉と井上毅の関係の話は、この時、議会制度成立史を担当していた立教大学教授・大久保利謙先生から直接聞いたことである。大久保教授は明治の重臣・大久保利通の孫でアカデミックな研究で知られ、福澤諭吉を高く評価していたことが面白かった。

       (続く)

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