「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

「日本一新運動」の原点―332

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇「真夏の夜の夢」―日本国憲法の法源を考える!

 

 遅い梅雨明けで暦の上では立秋ということだが、日本列島全体で猛暑日が続いている。事務局がある大分県日田市は、気象庁の「猛暑日ランキング」で堂々の日本一だそうで、事務局が干涸らびていないかと心配したが、空元気はあいかわらず旺盛のようで安堵している次第・・・・。

 

 さても、参議院選挙に続く都知事選も終わり、世の中が月遅れの盆休みにとなり、この時期の習慣となっている話題の書物をじっくり読んだ。

 まず『憲法の無意識』(柄谷行人著・岩波新書)で、ついで『世界』七月号の柄谷行人と大澤真幸の対談「9条もう一つの謎―〝憲法の無意識〟の底流を巡って」である。柄谷氏は、現憲法の先行形態を日本の歴史の中から検証したものだ。その補完を、『世界』七月号の対談でしたものと思う。

 重要な論点が各所にあるが、私がもっとも関心があったのは、新書では「戦後としての徳川体制」(65頁)とそれを補完した『世界』7月号の「徳川の〝文化〟の回帰」であった。乱暴な要約をすると、「徳川体制をふりかえると、特徴づけるものが二つある。一つは戦争の放棄です。軍事的開発拡張を全面的に禁止した。これは憲法9条に対応する。もう一つは、天皇を丁重に祭り上げ、政治の場から取り除いたことだ。それは象徴性天皇、つまり憲法1条に対応する。その意味で、戦後憲法には徳川の国制が回帰したものといえる」とのこと。

 この発想は目新しいものではない。歴史を深読みする人たちから、時折、呟きのように聞く話だが、著名な哲学者の話になると「なる程」と頷ける。私のような意地の悪い人間としては「徳川体制の国制」となった戦争の放棄と、天皇象徴制をつくった思想の根源は何かを何故述べないかと言いたい。

 

 そこで、以下は私の「真夏の夜の夢」として理解されたい。実は37年前、当時、千葉県葛飾郡沼南町大津ヶ丘と呼ばれた〝平将門〟ゆかりの地に引っ越したときの話だ。昭和54年4月2日の早朝、夢枕元に鎧姿の武将が現れた。「わしは徳川家康じゃ。守護霊だ」と。どえらい土地に引っ越してきたなと思った。母の影響で歴史人物では「家康」は好きではなく「将門」なら良かったが、嫌いな人が守護霊とは・・・、と抵抗感を持っていた。

 柄谷行人氏が諸論文で「徳川体制が現憲法の先行形態」と喝破したことで37年前に私の夢枕に現れた「家康」は、徳川体制の根源を学べということであったと気がついた。

 

(『龍馬本』の執筆で学んだ妙見北辰信仰)

 

 平成21年にNHKから放映された『龍馬伝』があまりにも酷いので、新しい龍馬論として『坂本龍馬の十人の女と謎の信仰』(幻冬舎新書)を、翌22年1月に刊行した。不思議なことに、執筆から脱稿、ゲラ校正中に至るまで、次々と妙見北辰信仰の情報がわき出すように持ち込まれてきた。日本の縄文古代から明治維新の廃仏毀釈まで、民衆の心を支えていたこと。龍馬の信条や活動原理も妙見北辰信仰であったことを初めて知った。

 最大の収穫は中西用康氏が自費出版した『妙見信仰の史的考察』で著者は伊勢神宮外宮・宮司の家系である。そこには日本の歴史が時代区分される変化のとき、「妙見北辰信仰」が大きな役割を果たしていることを検証していた。その中に「養珠院妙紹」という章があり、徳川家康の妻(養珠院)・お万の方が熱心な妙見北辰信仰で、家康の思想信条に大きな影響を与えたことを具体的に実証していた。

 家康が徳川幕府体制をつくりあげるに、最も大きな影響を与えた人物は、天台宗の天海大僧正いわれている。「天台」とは仏教用語で「北極星」と関係のある言葉である。天海大僧正が星信仰の妙見菩薩を尊崇し、家康の帰依を受け、幕政の重要な機務に参与したことは知られている。2代将軍秀忠・3代家光の指導者として、初期徳川体制の整備に貢献した。

 もう一人重要な人物がいる。水戸黄門こと徳川光圀である。水戸藩の第2代藩主で、家康とお万の方の孫にあたる。お万の方の影響で、熱心に妙見北辰信仰を学び施政に生かしたことで知られている。将軍家光時代を中心に活躍し特に民衆を大事にした逸話が多く残っているのは、妙見北辰信仰によるものだ。

「戦後憲法が徳川体制の先行形態」であると論ずるならば「徳川体制」をつくった根本信条は何であったかを検証しなければならない。そこで私の見た「真夏の夜の夢」は「妙見北辰信仰を学べ」という「お万の方のお告げ」であった。本格的研究はこれからだが、『妙見菩薩陀羅尼経』の本旨を現代風に、ひと言にまとめると次のようになる。


 「国の安寧は民衆の福寿を根本とする」


 この実現のためには古来からわが国の戦乱の原因となった「天皇」を非政治化し、戦争の放棄、人民の安楽を施政の目標とすることが必要だった。「日本国憲法の法源」は、深層心理学的にいうと、妙見北辰信仰にあるというのが、私の夢の結論である。

 

 

〇私の「共産党物語」 17 (平成時代初期の共産党の変化)

 

 昭和天皇崩御の当面の業務も一段落し、114回通常国会が再開したのが、平成元年2月10日。新天皇として初めてご出席される開会式に続いて衆参両院で竹下首相らの政府演説が行われた。長期政権を目論んでいた竹下政権にとって、通常国会の再開は厳しい政治状況となる。リクルート事件の再燃であった。

 暮れの12月30日、リクルート社からの献金問題で辞任した長谷川法務大臣に続き1月24日に原田経企庁長官がリクルート問題で辞任した。1ヵ月の間に2人の閣僚が辞め、政権は苦境に立った。同月30日には原衆議院議長にリクルート疑惑が発覚し政界は混乱する。さらに中曽根前首相への疑惑に発展し、与野党の対立を超えて、竹下首相と中曽根前首相の自民党政権内の権力闘争となった。

 野党側は、社会党・公明党・民社党それぞれに疑惑を持たれた有力な政治家がいて、問題を逸らすため竹下政権に厳しい攻撃を仕掛けた。2月16日に、衆議院予算委員会での総予算審議が始まると、国会はリクルート事件一色となる。野党側は、社会党を中心に中曽根前首相の証人喚問を要求した。4月24日に、竹下首相は総予算の成立を条件に政治責任をとるとして辞意を表明し、28日には自民党の強行採決で衆議院を通過させるという大混乱

となった。

 

 連休が過ぎ、リクルート事件で捜査が始まる。自民党・公明党議員が在宅起訴され法務大臣が事実上の捜査終了報告を行った後、中曽根前首相の証人喚問が衆議院予算委員会で行われた。リクルート事件で不可思議な終わり方に抗議するのは、疑惑がなかった共産党だけであった。

 この時期、中国では胡耀邦の追悼を機に学生の民主化要求運動が起こり5月中旬に学生らは天安門広場でハンストに入っていた。中曽根前首相が、衆議院予算委員会の証人喚問で「自分は関係ない」と開き直ったのが、5月25日だった。この日の午前9時前、国会議事堂の衆議院側にある通用門の陸橋の上で、共産党の寺前国対委員長と松本議員会長に出くわした。立ち話だったが、寺前国対委員長から久しぶりに気楽に話しかけてくる。

 

「この政治状況をどう考えているか」


「こんなところで話せませんよ」


「党の会合がある。何時もの歯切れのよい話をしてくれ」


「革新政党が、政権交代する気がないから、こんなだらしがない政治になるんですよ。天安門を見なさい。この国会議事堂を取り囲もうとする人間が日本にはいないじゃないですか。憲法の危機ですよ」


「参った、参った。竹下首相は退陣を表明。総予算を強行採決した原議長は辞めず与野党から相手にされない。会期は5月28日で終わる。国会が機能しなくなっている。どんな展開になるのか」


「緊急避難として、死に体になっている原議長を使ってまず会期延長をして、国会が機能できる基本条件をつくらないと、日本の統治は機能不全となりますよ」

 

 この国家的危機に、社会・公明・民社は原議長不信任案を提出。さらに社会党は「衆議院解散決議案」の提出を野党に持ちかけた。悩んだ公明党から相談があったので、私は「退陣表明した政権に、衆議院の解散要求をすることは憲法問題となる」と進言した。この事態に共産党は冷静に対応し、緊急事態として不信任案が提出されていた原議長によって会期延長25日間が議決され国会機能は回復した。

 政局は、6月2日に原・田賀谷正副議長が辞任し、田村・安井正副議長が就任した。さらに、竹下内閣の総辞職に伴い、首相に宇野宗佑氏が指名され宇野内閣が発足した。このリクルート問題を巡る第114回通常国会は平成時代の政治混迷の序の口といえるものであった。                 

(続く)

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   代    表 : 平野 貞夫
   顧    問 : 戸田 邦司
   事 務 局 : 大島 楯臣

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