「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

「日本一新運動」の原点―369

            日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 時局妙観

(憲法70年5月3日体験記)

1)第8回かしわ市市民憲法集会に参加して!

 

 柏市民文化会館に開会の30分前に着くとほぼ満員で席が埋まっていた。若手憲法学者として知られている首都大学東京教授・木村草太氏の講演というので興味があった。東京大学・憲法学の本流で育った学者で、テレビや新聞論調で活躍していて、生の話を聞くのは始めてだった。

 衆議院事務局勤務時代、仕事がら東大の憲法担当教授と接触する機会が多かった。昭和五〇年代には芦部教授と直接議論した。60年代には樋口教授と法制局を通じて論争したことがあった。国会の権限や運営上の問題で、憲法運用の限界がテーマであった。その時に感じたのは、東大には「天皇機関説事件コンプレックスが未だに続いている」というものであった。

「天皇機関説事件」とは、大正デモクラシーで明治憲法の運用で確立した「天皇は法人たる日本国家の機関である」という美濃部達吉東大教授の学説を、昭和十年、軍部を中心に右翼から弾圧され不敬罪に問われて、貴族院議員を辞任するという学問の自由が失われた事件である。

 この事件で東大を始め、憲法学者が戦争国家となる政治にモノが言えなくなる。そのため憲法学者が採用したのが、憲法の解釈運用を文理・言葉に従い忠実に解釈するという方法であった。法を政治的判断等から離れて純粋に捉えようとするケルゼンの純粋・実証法学であった。ケルゼンの狙いはナチズムを批判して、民主主義を確立するための学説であった。

 日本が敗戦で新憲法を制定してケルゼン学説は日本の憲法学の主流となる。ところが国会の運営とか米ソ冷戦の中の安全保障の現実の中で混乱と論争が起きる。代表的な例は憲法9条であった。これを厳格な純粋法学で解釈運用する論、現実を超えて乱用する論、可能な限り理念と現実を調和させて運用する論、さまざまである。私が体験的に言えることは、9条の文言に拘り厳格な文理解釈して護憲活動することが、かえって政治的な効果を生じケルゼンが期待した健全な実証法学とならなかったことだ。宮沢俊義という戦後憲法学の大御所に連なる学者に見える現象で、私はこれを「天皇機関説事件コンプレックス」と批判していた。

 木村教授の演題は『なぜ君は憲法に興味がないのか』というもので、憲法の興味のある人たち千名の前で失礼な話と感じた。そこは「興味のない人たちに伝えて欲しい」ということだったので、これ以上は言わない。話の内容として、9条を中心に安倍政治の問題点を指摘していたことは評価したい。当面の政治課題を憲法学の立場から論じていたことは、「天皇機関説事件コンプレックス」は解消していると感じた。

 敢えて注文をつけると、欧米の価値観による護憲論がベースにあり、日本人の価値観=日本の歴史で「戦争放棄・生命が第一」という主体的な発想がなかった。そこに護憲運動が「共同幻想」となって、日本の民衆の心に実感として届かない限界を感じた。

 

2)「山城博治・沖縄平和運動センター議長を激励する集い」に参加して!

 

 5月3日午後6時から沖縄の米軍ヘリパット建設反対の抗議行動で、昨年10月に微罪逮捕されて5ヵ月間も拘留された「山城議長」の激励会に顔を出した。この種の会合に出たことはなかったが、呼びかけ人の藤田高景・村山首相談話の会理事長から「たまには現場の人間の苦労話も聞け」と引っ張り出されたが、大変勉強になった。会場の中華料理店は百名を超える同志であふれ、山城議長のユーモアあふれる苦労話と、これからの活動方針を聞いて沖縄問題の困難さを改めて知った。それにしても山城議長の全身に「オーラ」とは違う、仏像から出るような不思議な鋭さと柔らかさの光を感じ、民衆運動の勝利を確信した。

挨拶に指名され「藤田理事長は山城さんと30年来の付き合いとのことだが、私は今夜始めて会って民衆運動は理屈では動かないことを80才を過ぎて知った」と、教育勅語の排除・失効両院決議の再確認をする国会請願運動を民衆の中で行っていくことを誓った。

 

〇 国会つれづれ  3

(「60年安保国会」を機に始まった国会運営の調査研究)

 

 60年安保騒乱は、戦後日本の政治・経済・社会を一変させた。岸政権に代わった池田政権はタカ派政治からハト派路線に激変し、とても同じ自民党政権とは思えなかった。これが自民党一党による「振り子政権交代」であった。池田首相は「寛容と忍耐」と、「所得倍増」を政治の柱とした。社会党も「米国の豊かさ、英国の議会民主政治、ソ連の社会保障」を国づくりのモデルにすると主張した。自民党は高度経済成長を目指しながら、地方農漁村への所得再配分に配慮した。政治闘争から経済闘争へ変化していく。

 こんな中で衆議院事務局も大きな影響を受けるようになる。安保国会で審議が紛糾していた頃の衆議院事務局の課長補佐以上の職員は学徒動員の経験者で、旧憲法で育った人たちが多く、新憲法や新しい国会法に馴染めなかった。昭和27年に講和条約で独立するまでは占領軍がいて、日本人の判断で国会運営をするようになって10年も経っていなかった。

 安保国会の直後に委員部に調査課を設けて新憲法と国会法による国会運営の調査研究を行うことになった。ここに本多(東北大博士課程)・桑形(京大博士課程)・私(法大修士課程)の3人が配置された。調査課で最初の作業は、国会図書館にある戦後刊行された専門雑誌から、国会運営関係の論文を集録することであった。

 約3千冊の学術専門雑誌と総合雑誌から議会政治論や国会運営手続論文をピックアップしてコピーで全文を集録する作業だった現在のコピー機とは異なり、俗に言う「青焼きコピー」といい、湿式で現像液を要する機能で手間が大変だった。6ヵ月ほどして現在のコピー機の原型となる機材が富士ゼロックスから売り込みがあったがリース代が巨額で、会計担当の庶務部が応じない。

 作業現場で苦労している私が委員部長に直訴することになった。前庶務部長の知野虎雄という実力者だ。技術的な知識のない私が説得できるはずもない。「富士ゼロックスの特長をひと言でいえば」と口頭試問となる。私が答を間違えて「エロクトロニクスによる技術です」というと大笑いとなった。正解は「エレクトロニクス」だ。この話を委員部長が、剽軽(ひょうきん)な久保田事務次長に話したところ、話が拡がり私は笑い者になった。数日後「平野がかわいそうだ」との声が出た。結果は大成功で年間一千万円のリース代で事務局として契約した。

 口の悪い先輩からは「あれは平野がワザと間違えたのだ」といわれたが、ゼロックスコピー機の導入で助かったのは論文集録だけではなく、国会運営の資料づくりや効率化に革命的に役立った。吊られて私の人気も上がり、いい気になってコピー機の「ゼロックス」の張り紙にあるゼの濁点とロの文字に紙を張ったところ、女性職員から厳しく叱られたが、当時はまだ〝セクハラ〟という言葉さえなかった。

 論文集録が終わると、知野委員部長から出た命令は「国会法の逐条解釈を係長以上に分担させて論文を提出させる。企画事務管理を調査課で行え」ということ。明治時代に議会が開設して以来の大行事となった。国会法は補足を入れて133条ある。これを、当時30人ほどいた課長補佐と係長に割り振り、各条文の解釈に関わる論文要旨を転載して問題点を提起する企画をつくったところ、〝勤務評定〟をする気かと大騒ぎになった。

 さらに悪いことにこの時期、私が七等級から6等級を飛び超えて5等級の係長に昇進した。議会事務局開設以来初めてのことで、当然のことに職員組合は文句をいい係長待ちの先輩たちから仲間はずれにされた。末席係長なので、担当した条文は最後の補則で、第133条の「国会法規の期間計算」であった。このプロジェクトのために、私を係長に昇進させたわけで、衆議院事務局の嫌われ者となった。私も腹を決めて旧弊と闘う気になった。 国会法逐条解説の資料は、ワープロがない時代で各人が〝ガリ

版刷り〟で大量作成し、閉会中に知野委員部長以下、係長以上が出席した「国会法研究会」で各人が担当した条文を発表し、全員で自由討議を行った。上も下もない国会法規に対する討議は勤務評定ならぬ「人間評定」となった。 公務員の世界でこんなことができた時代でもあった。

(続く)

プロフィール

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   代    表 : 平野 貞夫
   顧    問 : 戸田 邦司
   事 務 局 : 大島 楯臣

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