「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

「日本一新運動」の原点―376

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 時局妙観 (いわき市の市民集会にて)

 6月25日(日)「ミナセン浜通り結成集会」に招かれ〝戦後国会の生き字引が語る「立憲主義の危機・左右を超えた野党共闘の意義」〟という演題を与えられ話をしてきた。

 いわき市との縁は昭和36年に衆議院に「石炭対策委員会」が設置され運営事務の仕事をしたことから始まった。半世紀以上昔の話だ。4年後、園田直衆議院副議長秘書役となった時常磐炭鉱(株)の木山専務が園田さんと熊本の旧制天草中学校の同級生で、石炭企業合理化のなか地域や企業の再生策を手伝ったことがある。観光の名所となった「ハワイアンセンター」の開園式に、園田副議長夫妻と3人で招待され参加したことが懐かしい。

 

 時が過ぎ平成七年の参議院選挙で、いわき市出身の戸田邦司氏が運輸省海洋安全局長から新進党所属の参議院議員に転身し、以後、政治的同志として活動を続けているし、「日本一新の会」も戸田氏を顧問として発足した。さらに平成11年から4年間いわき市の東日本国際大学(学校法人昌平黌)で、国会閉会中の毎土曜日に、「現代政治を論語の精神で再生する」を講義していた。会場の「いわき市文化センター」に着くと驚いたことに園田直氏に縁の深い高齢の婦人が顔を見せており、集会のチラシを見て駆けつけてきたとのことで、昔話に花が咲いた。もうひとり、、民進党の増子輝彦参議院議員が集会に出席し挨拶をした。昨年の参議院選挙で福島地方区で野党統一候補として勝利した人物だ。私と同時に自民党を離党し、一貫して自民党政治を批判してきた政治家だ。15年ぶりの再開で、これからの四野党協力の成功を誓い合った。

 

 集会は呼びかけ人の広田次男弁護士の挨拶で始まった。「ミナセン」とは〝皆んで選挙に行こう〟の意味だと理解し、4野党の選挙協力による安倍自公政権を打倒して政権交代を実現しようと呼びかけた。来賓の増子参議院議員が挨拶した後、呼びかけ人の佐藤健一元県議会議員が講師紹介として、私を招いた経過を説明してくれた。佐藤氏は本会の維持会員で、この種の会合としては初めて「日本一新の会」の活動を適切にPRしてくれた。

 こんな雰囲気で私の話が始まったものの準備した堅めの「レジュメ」をそのまま活用できず、思いつきの話をする羽目となった。

 

(終活第一号の講演要旨)

1)東日本国際大学での講義の思い出

 田久理事長から「現代政治を論語の精神で再生」という講義要請を一旦は断ったが、しつこく要請され応じることになったのは、高校生時代に日教組(社会党左派)の指導者の美馬先生から教えられた『忠恕』(ちゅうじょ)という論語からの言葉を思い出したからでした。偶然ですが昭和48年に私の人生の師となる保守本流の前尾繁三郎衆議院議長から『忠恕』についてたびたび説明を聞いていたのです。「忠」は、自己の内なる真心に背かぬこと。「恕」は、その真心による他人への思いやり、ということでした。

美馬先生は「これが教育者の道である」と。前尾議長は「これは政治家の道だ」と。私はこの2人の教えの中で生きてきました。

80歳を過ぎた人生を振り返り、昭和時代というのは、保守とか革新とか対立した立場にいても、虚言や不誠実を嫌う本流に生きる人間は、活動の根底に共通した哲学を持っている時代で、そんな時代に生きて幸せでした。平成時代になって、こういうことが顧みられなくなり、これが混迷の原因のひとつかも知れません。

 

2)日本人が〝政権交代政治〟に馴染めない理由

 立憲デモクラシー・議会民主政治では政権交代が絶対に必要なものです。日本ではその教育ができてなくその実体を知っておくことが必要です。

 

Ⅰ)明治憲法下の状況 天皇主権ですから憲法上の義務はありません。しかし「天皇機関説」という憲法運用で、英国を参考にして大正デモクラシーを経て大正14年から9年間、先進国並みの政権交代政党政治が実現しました。5つの政権で4人の首相によるものでしたが、4人のうち、浜口雄幸(民政)と犬養毅(政友)の2人が暗殺されていることが深刻です。2人とも軍部の全体主義を嫌い民主政治の発展を指向したことで知られています。

 犬養首相の場合昭和7年5月15日に陸海軍の過激分子が首相官邸を襲撃したもので、政権交代政治が幕を降ろし、ファシズム政治に入り戦時体制となって行きます。日本人の中には立憲デモクラシーを本能的に嫌うDNAをもつ人たちが絶えないようです。昨今でも、安倍首相の支持者や、支援団体は、その動きを積極的に行っているといえます。

 

Ⅱ)日本国憲法下の状況 

 国民主権の原理にもとづき議院内閣制による政権交代を機能させる規定が整備されます(第67条・第69条等)。

 

イ)新憲法発足時の状況 

 最初の総選挙(昭和22年4月25日)で単独過半数を獲得する政党がなく、第1党の社会党、第3党の民主党、第4党の国民協同党で、片山哲社会党委員長を首相として連立政権をつくります。ところが片山内閣が社会党内の抗爭で9ヵ月で崩壊し、芦田均民主党委員長を首相として連立政権を続けます。これが疑獄事件で8ヵ月で崩壊します。そこで政権が交代し第2次吉田内閣が、民主自由党の単独少数政権で成立します。1年半で3人目の首相に代わる事態に国民は政治不信となり政権交代に不安を持ちます。

 吉田首相は翌24年1月の衆議院総選挙で単独過半数の第3次吉田内閣を成立させます。政権が安定した直後、吉田首相は講演で「社会党を教育して、英国のように〝保守対革新〟の2大政党が政権交代できる議会政治を実現したい」と発言します。第2党の民主党は「侮辱された」と怒り、第3党の社会党は「ワンマン吉田首相からは言われたくない」と抗議、与党民自党からは「社会主義政党との政権交代なんか論外」と批判の渦となる。こんな風潮が健全な政権交代への国民意識を妨げることになりました。

 

ロ)半世紀続いた保守独裁政権の状況 

 吉田内閣は復興・講和・日米安保などを実現し昭和29年に鳩山民主党政権に交代します。翌年には、社会党の左右両派が統一します。その影響で保守合同が行われ「自由民主党」が結成されます。

 この自由民主党は平成5年8月宮沢喜一内閣が総辞職するまで、38年間の長期独裁政権を続けました。政権交代なく自民党が政権を続けた理由を知ることがきわめて大事なことです。

 第1は、米ソ冷戦という国際情勢が決定的要因です。米国かソ連かの選択で国内では激論が続きましたが、国民の多数は敗戦→占領→講和の歴史の流れで米国を選択しました。これが自民党長期政権の基盤でした。

 第2は、自民党に〝米国に従属した憲法改正再軍備派〟と〝米国を利用しながら国民生活向上派〟の対立がありました。60年安保改定を実現した岸首相が退陣してから後者の経済・生活優先の政治が続きます。社会党を中心に公明や民社の野党が、事実上協力することになります。 

 昭和54年の特別国会(40日抗争)では、自民党から2人の首相候補者が衆議院本会議で決選投票を行います。社会党の「憲法に禁止規定がないから」のひと言が議会政治の条理を狂わせました。これは〝野党は政権交代を望まない〟という宣言に等しいものでした。実は「自社55年体制」というのは、自民党派閥による「疑似政権交代」による議会政治でした。そして自民党派閥政治には莫大な政治資金を要しロッキード事件やリクルート事件など構造汚職が日常化し、国民の政治不信が増大します。

 

ハ)米ソ冷戦終結で始まる政治改革 

 昭和の終わりの「リクルート事件」は、自民だけではなく社公民も関わる構造汚職でした。竹下首相は退陣と引替に、自民党に対し、選挙制度・国会運営・政治資金などの政治改革を提示しました。狙いは衆議院の中選挙区制度を改革し、派閥金権政治をやめ、政権交代が健全に行える「小選挙区比例制」を導入することでした。与野党の反対論が強いなか、平成元年7月の参議院選挙で与野党が逆転し、自民党は海部首相―小沢幹事長体制となり、後藤田正晴・伊東正義の長老が相談役でした。党内説得を始めた矢先の12月3日、米ソ冷戦が終結したのです。

 冷戦の終結は、それに続く湾岸紛争とともに、日米安保体制で、一国平和主義と一国繁栄主義、それに政権交代しない議会政治を続けてきた日本人を驚かせました。世論のほとんどは、自民派閥金権政治がつくった「自社五五年体制」の改革を迫るものでした。

(続く)

「国会つれづれ」は休みました

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   代    表 : 平野 貞夫
   顧    問 : 戸田 邦司
   事 務 局 : 大島 楯臣

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