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「日本一新運動」の原点―126

                                   日本一新の会・代表 平野貞夫妙観

 ◯ 仙台紀行―伊達精神が日本を再生させる!

 9月8日(土)、久しぶりに仙台を訪問した。政策研究フォーラム・宮城県連絡会「第四回研修会」で講演するためであった。与えられたテーマは「政治情勢―課題と今後の政局」で、国会が崩壊し、民主・自民ダブル党首選が混迷している時、極めて話しにくい悩ましい問題であった。

 重ねてまづいことに、講演に必要なデータなどのメモを、新幹線の座席ポケットに置き忘れてしまった。今年、77才となる後期高齢のせいかと我ながらがっかりしたが、持ち前の開き直りの出たとこ勝負とばかり、伊達妙見北辰精神や政界裏話を話してきた。世の中おかしなもので、この方が好評だった。メモを置き忘れたのは妙見菩薩の悪戯だったとも思える。


 (伊達精神は民衆の福寿を第一とした)

 伊達精神とは、仙台を中心に北は岩手県奥州市周辺、南は福島県、そして東北全体、否、日本の各地にわたって影響を与えている思想―文化ともいえる。私の勝手な造語である。その理由は私の故郷・四国西南地域の歴史にある。四国の四万十川・足摺岬・宿毛湾・宇和島湾・八幡浜・佐田岬など西南地域は、ことばや習慣・風俗・歴史・経済など地政的に共通の文化を持っている。

 徳川家康は天下を取った後、伊達政宗の長男秀宗を宇和島藩主に命じた。政宗は秀宗の施政を成功させるため、もっとも信頼する家臣・山家清兵衛(やんべせいべい)を家老として赴任させた。宇和島藩は家老・山家清兵衛のもと、領民に善政を施した。その精神には伊達家代々の妙見信仰で、民衆の福寿による藩の安寧であった。ところが反対派の讒言により山家清兵衛は非業の最期を遂げた。しかし、死後もなお藩主や領民を守護する出来事が次々に起こり、山家清兵衛の冤罪を晴らしその霊を和ませようと、藩主伊達秀宗が寛永八年(1631)に、和霊神社を建立した。この和霊神社の評判がまことに高く、四国全体に拡がっていく。坂本龍馬の四代前の先祖で国学者でもあった坂本八郎兵衛が、民衆の守護神として信仰されていた和霊神社の由来を知り、宝暦12年(1762)、坂本家の屋敷神として宇和島の和霊神社を勧請し、高知の神田(こうだ)村水谷山に分祀して建立した。

 それから約百年の時が流れ、文久2年(1861)3月23日、神田村水谷山の和霊神社で「吉野に花見に行く」といって水杯を交わす青年がいた。坂本龍馬である。土佐藩脱藩の前日であった。坂本家は妙見星信仰と縁が深く、龍馬は二度にわたる江戸修行で北辰一刀流の千葉道場で妙見北辰信仰を学んでいた。坂本龍馬は民衆を救済する国家を作るために脱藩したのだ。その背後には四国で生きていた「伊達精神」があったといえる。

 幕末の混迷期を打開するため活躍した諸藩に、薩摩・長州・土佐などが知られているが、その陰で本当の活躍をしたのが宇和島藩であった。最後の藩主・伊達宗城の秀れた能力がわが国の近代化に大きな役割を果たしている。「酔鯨」こと、山内容堂の政治思想のほとんどは伊達宗城の発想であったといわれる。酔っ払いの容堂をうまく動かしたのである。宇和島に、大村益次郎らを招き、造船・海防・医学・洋学など、藩や身分を超えて人間の教育を行った。明治になって日本の指導者となった人材は大勢いる。大津事件で法の平等を主張して伊藤博文首相に抵抗した、大審院児島惟謙院長に代表される。


★追記
 9月度より、会員用発行記事については、3割レベルの転載に成りました。
 情報掲示としては、少なく成りますが、ブログとして一部転載を継続して行きます。
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