「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

「日本国憲法改正試案」 3/5

 新世紀を迎えようとする日本が平和を維持し、生き残っていくためには、国際社会との協調を図らないければならない。そのためには、国連を中心としたあらゆる活動に積極的に参加していく以外に道はない。
 その意味で私は、日本が率先して国連常備軍の構想を提案すべきだと思う。兵器・技術の発達により、もはや昔の主権国家論は通用しなくなった。
 個別的自衛権や集団的自衛権だけで、自国の平和を守ることは不可能である。集団安全保障の概念、すなわち地球規模の警察力によって秩序を維持するしかない。
 自衛隊は歴史的使命を終えて、これから縮小することになる。そして日本は国連常備軍に人的支援と経済力を供出すべきである。

 明治維新のとき、朝廷は武力を持たなかった。警察力も権力もなかったので、薩長を中心に親衛軍をつくったのである。今の国連は、ちょうど維新後の朝廷と立場が似ている。固有の力を持っていないので、事が起きた時に、その都度各国に呼びかけPKOを始めとして多国籍軍の編成を行うことになる。
 これでは、緊急な時に迅速な行動がとれないという事もあり、又、その時々の各国の思惑や事情により実効があがらないという面も多々ある。従ってこういうやり方でなく、一歩進めて国連に常備軍を設けるべきであるというのが私の主張である。

 日本は国際協調によらなければ生きていけないのだから、日本が積極的にこの常備軍創設を呼びかけるべきだ。アメリカはこの考え方に賛成ではないが、日本はその説得にあたると同時に、経済的にも軍事的にもその力の備わった有力な国々に積極的に提唱し、それを率先して実行する姿勢を示すべきである。

 一概に、国連を中心とした集団安全保障とは言っても、もちろん実はそこに国益が絡んでいることもある。湾岸戦争のときにも、アメリカはメジャーの石油資本を守りたいという思惑があると主張する人達がいた。確かに、自らの利権を守るために軍隊を派遣する側面もあった。しかしアメリカはけしからんと短絡的に批判することに、何の意味があるのか。

 これはグローバリゼイションの問題でもある。この流れに反感をもつ人達の中には、「グローバリゼイションとはアングロサクソン原理の国際化である」と言って批判する人がいる。しかし、そんなこと言っても、どうしようもない。世界はそれに基づいて動いているのだから、きちんと対応して克服するしかないのである。
 アメリカと手を切ることは、日本が鎖国するということに等しい。それでいい、それこそが真の幸せだと確信できるのであれば、それも一つの行き方であり哲学だと私は思う。しかし、物資的豊かさは人一倍享受したいと願っているくせに、口先でだけそんな事を言うのは、日本的〝アマッタレ〟以外の何物でもない。

 結論として言えば、国際の平和と安全の維持、回復のため我が国が積極的に貢献することは、憲法第九条に言う「国権の発動たる戦争」とは全く異質のものである。

 すなわち、我が国が世界の恒久平和のために、国連権章に基づき、兵力の提供を含むあらゆる手段を用いて貢献することこそが、結果として我が国自身の平和と安全を守ることである。
 そして、これこそが日本国憲法の目指す「国際協調主義」の原点そのものである。

公共の福祉を啓蒙しろ

 第三章は「国民の権利及び義務」であり、現行憲法では第十条から第四十条までに明文化されている。
 この日本国憲法全体の問題として、抽象的な言葉が多すぎるためにわかりにくいと指摘しているが、この第三章においてはその傾向があからさまになっている。

 特に目につくのは「公共の福祉」という言葉だ。第十二条と第十三条に出てくる。さらに第二十二条、第二十九条と、頻繁に出てくる。「公共」という言葉は乱用の域に達しているのに、「公共の福祉」という言葉が何を意味するのか、憲法にはまったく定義されていない。これでは憲法論議そのものが、言葉遊びの陥穽にはまりこんでしまう。

 第十二条には「自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しないければならない」と説かれて、最後に「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」としている。
 第十三条の「個人の尊重」も、やはり「公共の福祉に反しない限り」と制限されている。

 民法には第一条の基本原則として「私権ハ公共ノ福祉ニ遵ウ」とあって、権利の行使、義務の履行は信義に従って誠実になすことが必要であると書かれているのに、憲法には「公共の福祉」の規定が独立していなくて、条文に埋もれさせているから抽象的で意味不明になる。両条文の改定案は、第十二条では「公共の福祉」を規定して、第十三条は自由や権利を保持するためには国民の努力が必要であるという訓示規定にすべきである。

 従って、第十二条、第十三条は次のように改正する。その結果、他の条項に書かれている公共の福祉の文言は必ずしも必要でなくなる。

[公共の福祉]
「この憲法の保障する基本的人権はすべて公共の福祉及び公共の秩序に遵う。公共の福祉及び秩序に関する事項については法律でこれを定める。」

[幸福追求権]
「この憲法が保障する生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならない。」

 日本では、公共の福祉という概念が理解されていないので、個人の権利を制限する法律がつくれない。日本人が本当の意味で自立するためには、時には個人の自由が制限されることもはっきりさせておく必要がある。

 政府にも責任があるだろう。例えば通信傍受法案。これは国防を含めた治安維持に欠かせない。そこの問題を国民には隠して、捜査するのに少しだけ必要などと誤魔化しながら法案を通そうとする。住民台帳をつくるのも、税金のためだけではない。有事の安全保障や緊急時の危機管理に必要だからこそ、背番号制度を導入するという形で論議されるべきではないか。

 日本の政治は、その本質を取り違えている。公共の福祉という概念をきちんと国民に理解してもらって、その上で具体的な危機管理システムを提案すべきではないか。それから組織犯罪によって国民全体が不利益を受ける危険性を啓蒙すればよい。もちろん権力がそれを濫用したら国民は不利益を受けるから、厳罰をもって対処することも規定すべきである。

 この第三章には、あえて憲法に書くべきでないような、常識の範疇にあると思われる当たり前の条文も多い。時代に必要とされない条項が残されていると、裁判上のトラブルを発生させる原因にもなる。
 憲法に明記されている価値観が、日本古来の伝統文化になじまないケースもある。神道の祖先崇拝は、西欧人の宗教観とは異なる。第二十条の信教の自由に基づいて最高裁が憲法違反として愛媛県の「玉串料判決」は、八百万の神を信じる日本人にはピンとこない。信教の自由は、宗教と国家が結びついたファシズムの抑止に限定してはどうか。
 また、「環境権」や「知る権利」のような新しい人権も導入されて然るべきである。
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