「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

◎「日本一新運動」の原点―172

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇憲法夜話 2)明治時代の日本人の「憲法観」を知るべきだ!

 

 7月21日の参議院選挙の投票率が52・61%、自民党の比例得票率が34・68%、自民党新議席が65、全有権者の18・25%の支持で、改選議席121の53・7%にあたる議席を獲得したことになる。

 

 昨年12月16日に行われた衆議院総選挙では、投票率が59・32%、自民党の比例得票率が27・62%、自民党新議席294と、全有権者の16・38%の支持で、改選議席480の61・3%にあたる議席を確保したことになる。

 

 これらの数字合わせに納得しない人も多いと思うが、原因は、1)政策や理念に差がないのに、野党がまとまれないこと。指導者たちの不甲斐なさによる国民の政治不信。2)巨大メディアが生き残りをかけて、現権力を勝利させるために、懸命に努力した結果だ。こうなると、わが国の議会民主政治の構造に深刻な問題があると思わなければならない。

 私が『小沢一郎謀殺事件』と名づけた「小沢一郎氏への政治弾圧」が、ふたつの国政選挙の結果をつくったものといえる。

 

 わが国の民主政治のあり方は、日本人の憲法観のあり方の問題である。5月23日の「メルマガ・日本一新」162号で「憲法夜話1)憲法改正論のパラドックス」を述べた。ここらで腰を入れて、明治憲法制定経過から、国民のひとりとして知っておくべき、日本人の憲法観について論じてみたい。

 

(国会開設運動が憲法制定の原点)

 

 明治維新をわかりやすく言うと、幕藩体制を廃止し、天皇を中心とする国家体制をつくること、そして明治天皇が『五箇条のご誓文』で国民に約束した「万機公論に決すべし」という公議政治を実現することであった。前者は武力討幕派が主流であり、後者の公議政治論は幕府の開明改革派と、倒幕側の開明派の共有した構想であった。明治政府がスタートする際、天皇の名で天下に約束しなければならない事情があった。

 

 天皇を中心とする国家体制をつくることは、明治初期、藩閥専制官僚によって着々と整備された。封建領主制の解体、古い秩序と考え方の改革を次々と行う。廃藩置県(明治4年)、義務教育制(同5年)、徴兵令(同6年)、地租改正(同)などである。近代化・文明開化といわれるものだ。

 これらの改革が、明治政府発足の時に設けた公議政治の機関(公議所・集議院等)を、縮小あるいは廃止したうえで、藩閥官僚によって専制的に行われたため、旧武士や国民から強い反発が出た。国民の反発は専制政治の内部矛盾、権力闘争となる。

 

 明治6年の征韓論争を経て、専制政府内の対立はクライマックスとなり、専制政治に反対する参議(閣僚)たちは下野する。下野した参議たちの間でも意見が分かれる。武力闘争派との絆を切れない西郷隆盛は鹿児島に帰り私学校を設立する。進歩派の板垣退助らは、欧米から導入される自由民権思想を理論として国会開設運動を始める。

 

 板垣らの最初の活動は、明治7年1月の愛国公党の結成による「民撰議院設立建白書」の提出であった。その思想は天賦人権論で、民衆による民衆のための政権の樹立が主張されていた。民衆の結社を厳禁していた時代であり、専制政治は取締りとともに、御用学者を駆使して、「国会開設時期尚早論」を全国に流布させた。一方、国会開設運動が全国で大きな渦となるや「地方官会議」の設置など国会開設の準備を形だけとりながら弾圧を強めていく。

 

 明治10年9月、西郷隆盛が城山の露と消えて西南戦争が終わるや、かつての盟友・大久保利通は専制をさらに強化する。その大久保も翌年5月、東京紀尾井坂で惨殺される。大久保亡き後、伊藤博文と大隈重信が政府の実権を握り、二人は対立を激化させていく。そして自由民権運動・国会開設運動に厳しい弾圧を重ね、自由主義を唱える者は政府に謀叛を抱く者と宣伝した。自由民権運動は、一時期、一般国民から疎んじられるようになるが、「自主の権利の伸張」こそ国家のために重要だと、地方を中心にきめ細かな政治思想の啓蒙を行っていく。その成果が、明治13年の「国会期成同盟」の結成と請願運動であった。2府22県で13万人の署名会員が集った。この運動が「自由党」の結成に発展していく。

 

 伊藤・大隈専制政治は、この国会開設運動を無視できなくなる。天皇はかねてから「立憲政体の意見書」の提出を参議全員に命じていた。提出が遅れていた大隈参議の意見書が明治14年3月に出され、専制政府は大騒ぎとなる。内容は「明治14年末に議院開設の布告を行い、15年末に議員を選挙し、16年から国会を開くべし」との急進論であった。これは福沢諭吉の指導で、英国型の議院内閣制の提議であり、立憲改進党の基本方針となる。

 

 驚いた伊藤参議は、民権派の背後に大隈参議がいるとして追い落とし工作を画策した。それが「明治14年の政変」である。この時期、北海道開拓使官有物払い下げ疑惑が、民権派から追求され、大隈参議がこれを推し伊藤参議と対立していた。 明治14年10月12日、天皇は『国会開設の詔勅』を突然宣布した。その内容は「明治23年を期し議員を召し国会を開き以て、朕が初志を成さんとす」というものであった。これは前夜、東北行幸を終えて帰京した天皇を待ち、大隈を除く参議が集まり御前会議を開き決めたことであった。

 

 大隈参議は野に下り、翌15年4月に立憲改進党を結成する。板垣を中心とする自由民権派が「国会開設の詔勅」を知ったのは宣布の12日、自由党の結成について協議中の浅草・井生村楼であった。

 明治15年3月3日、伊藤博文は「憲法取り調べの勅語」を賜る。国会を開設し、天皇が公布する『憲法』を制定するため欧州に派遣されることになる。同月14日、伊藤ら9名は横浜港を出発した。

 

(明治の日本人は『憲法』が好きだった!)

 

 伊藤博文が勅命により憲法制度調査のため訪欧する明治14年までに、わが国でどんな憲法構想があったか、私は昭和63年に調べたことがあり「議会政治100年」(徳間書店)に所収している。明治6年から同14年頃まで39件見つけたが、他にもっとあると思う。興味を引かれるのは、同13年から14年の2年に28件と集中していることだ。

 

 明治13年頃

 1)大日本国会法草案 明治13年以前 桜井静 2)大日本国国会権限 明治13年 山際七司 3)大日本帝国憲法見込書大略(甲号案) 明治13年 筑前共愛会 4)大日本帝国憲法見込書草案(乙号案) 明治13年以後 筑前共愛会 5)国憲大綱 明治13年頃 元甲水孚 6)大日本帝国憲法草案 明治13年 中立正党政読記者 7)大日本国憲法 明治13年頃 京都府立民有志

 

 明治14年頃

 8)大隈重信意見書 明治14年 福沢諭吉、矢野文雄 9)国憲意見 明治14年 福地源一郎 10)私擬憲法案 明治14年 交詢社 11)私考憲法草案 明治14年 交詢社 12)私擬憲法意見 明治14年 不明 13)憲法草案 明治十四年 東北七州自由会議憲法見込案作成委員 14)岩倉具視憲法綱領 明治14年 井上毅 15)国憲私案 明治14年 兵庫国憲法講習会 16)私草憲法 明治14年 山陽新報記者 17)日本憲法見込案 明治14年内藤魯一 18)日本国憲法(草稿本) 明治14年 植木枝盛 19)東洋大日本国国憲案(第一次清書本) 明治14年 植木枝盛 20)日本国国憲案(第二次清書本) 明治14年 植木枝盛 21)民約憲法草案 明治14年 相愛社 22)憲法案 明治14年 三尾自由党 23)日本憲法見込案 明治14年 立志社 24)日本国憲法草案 明治14四年 村松愛蔵 25)憲法草案 明治14年 山田顕義 26)大日本帝国憲法草案 明治14年 菊地虎太郎、黒埼大四郎、伊東藤郎 27)各国対照私考国憲按 明治14年 東海暁新報記者 28)私拾憲法 明治14年 高橋喜惣治

 

 憲法構想は明治15、16年と続出する。そのなかでは、西周の『憲法草案』、小野梓の『国憲汎論』などが有名である。伊藤博文は明治16年6月に調査を終えて帰国する。

 

 明治の政治家は、国政に国民が参加し国民の基本権をいかに勝ちとるか、そのため自由民権・国会開設を憲法制定によって確保しようとした。

 一方、平成の政治家は国会議員になって国民の基本権を変質させたり、憲法以前に戻そうと企てている。自民党の憲法草案がまさにそれである。他党の論議も条文の文理技術論の域を出ないものだ。 今こそ、明治の先人に、『憲法とは何か』政治の原点を学ぶべきだ。     
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