「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

◎「日本一新運動」の原点―227

                                日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

○日本国憲法と「国連の集団安全保障」(4)

 1956年(昭和31年)12月18日に、わが国は80番目の国連加盟国となった。加盟申請したのが1952年(昭和27年)6月なので、4年半という時間を要した。理由はソ連による3回にわたる拒否権の行使であった。日本が国連に加盟申請した時期は吉田内閣によって単独講和条約を発効させた直後だった。
 昭和29年12月に吉田首相が退陣し、鳩山一郎民主党政権に交代。その後、保守合同で鳩山自民党政権ができ、昭和31年(1956年)10月、領土問題を棚上げにして「日ソ共同宣言」が調印された。これによって国連総会は満場一致で日本の加盟を認めたのである。

 国際連盟脱退以来、23年ぶりの国際社会に復帰するにあたっての、重光葵外相の加盟演説は、諸外国から高い評価を受けた。
要点は、日本憲法の前文は国連憲章の精神で貫かれていること、無制限な国家主権を排して普遍的な政治道徳を信じ、国際社会の名誉ある一員としての地位を占めていくとの格調高いものであった。この演説が翌年の「外交青書」で日本外交の基本方針となる。
すなわち「国連中心主義」「自由主義国との協調」「アジアの一員としての立場の堅持」の外交3条件である。

 国民は大きな期待を国連外交に抱いたものの、現実の国際政治は米ソ冷戦の激化とともに国内政治にも大きな影響を与えた。そして「たかが国連、されど国連」と酷評されるなか、国連は人権問題や開発途上国問題など、地道な活動を続けていく。歴史は国連への酷評をそのままにしておかなかった。

 米ソ両国による過激な軍備拡大競争やグローバルな高度情報化、そして社会主義国家体制の腐敗化などよりソ連圏の崩壊が始まる。それを象徴するのが、1989年(平成元年)11月、ベルリンの壁崩壊であった。そして翌月2日地中海のマルタ島でブッシュ・ゴルバチョフの米ソ首脳会談による冷戦終結宣言であった。ソ連圏の崩壊は世界情勢を激変させ、国連中心の国際政治が全世界から期待されるようになる。

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