「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

「日本一新運動」の原点―265

 日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

○ 週刊ポスト恒例「老人党座談会」の補足! 

 

 4月28日(火)連休の入り口、週刊ポスト誌恒例の「老人党」座談会に招かれた。私の発言は、5月9日発売の5月22日号に掲載されている。「この国の唯一の〝健全野党〟が怒った」との見出しが躍っているが、参加者は、村上正邦・矢野絢也、そして私の3人だった。テーマは「戦後70年談話を考える」だったが、日米首脳会談や統一地方選、自民党の異常なメディア介入など、多面にわたった。そこでの私の発言でカットされた「戦後70年談話」に絞って補足しておく。

 

 

(「戦後70年談話」問題のきっかけ!)

 

「戦後70年村山談話」が、当時の村山首相の見識で突然出てきたように報道され、それを前提にした賛成と反対が巷間で議論されている。歴史を正確に知らない有識者、伝えないマスメディアに問題はあるが、私が直接関係したことなので、この際、敢えて説明しておく。

 

 平成5年6月18日、宮澤内閣不信任案可決をうけて、衆議院は解散となる。自民党から「新党さきがけ」と「新生党」が離党者によって結成される。社会・新生・公明・民社・社民連の5党は、非自民政権を樹立するため選挙協力をすることになる。

 ところが新生党の支持者から「選挙公約に国民を躍動させる力がない」との批判が噴出した。そこで「グローバル・ニューディール政策をつくり、アジアを中心に災害対策・地域振興などインフラ整備をやろう。そのためには『かつての戦争への反省と、お詫び』をしなくてはならない」との構想を、羽田党首が浜松市の外国特派員との記者会見で発表した。

 

 発表の日、北海道の奥尻島で大地震が発生し、国内ニュースとしては小さな扱いとなったが、東アジアでは大きく報道された。8月に非自民連立政権が成立し、細川首相はこの「かつての戦争への反省とお詫び」をする機会を探した。最初の機会を8月15日の「戦没者追悼式典」とし、細川首相は初めて「日本のアジアに対する加害責任」を表明した。

 さらに同月23日、衆参両院本会議での所信表明演説で「戦後の繁栄は先の大戦での犠牲者のもとにある」とした上で、「我々はこの機会に世界に向かって過去の歴史への反省と新たな決意を明確にすることが肝要であります。まずはこの場を借りて、過去のわが国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたことに、改めて深い反省とお詫びの気持ちを申し述べる」と発言した。

 

 これが内外で話題となった。特に国連中心主義の外交方針を示していたため、ドイツの第2次世界大戦への反省とお詫びと同じように理解され、国際社会から好感を持って受け止められた。翌年の平成6年は、四月に細川政権が羽田政権に代わり、6月には非自民政権が倒され「自社さ政権」が成立する。そして翌7年は「戦後50年」となり、自社さ政権の中で〝何か国際社会で評価を受けることをやろう〟となった。そこで当時自民党政調会長だった加藤紘一氏を中心に、社会党を政権に引きつけておく方便として、細川政権の発足時に、国際社会から高い評価を受けた、「侵略・植民地支配への反省とお詫び」を、国会決議でやることで自民党内をまとめた。

 

 自民党では右派を中心に文言でもめたが、当時私は「歴史観などは政治指導者とか、政党といった立場で発表するもので、評価や批判などは多くの議論があってしかるべきことだ。それを国会という場で、国家の意思として決議することは多数決に馴染まない問題である。真理は何かとか、歴史に対する判断は、多数決の対象にしないことが議会主義の原理だ」主張した。

 

 新進党はこの常識を守って、6月7日の衆議院本会議での議決に欠席した。参議院では決議を行わなかった。私は、土井たか子衆議院議長を相手取り、「憲法の議会原理違反」として、関係した山田正彦衆議院議員とともに東京高裁に訴訟を提起したが却下された。こうして同年8月15日、村山首相は「戦後50周年の終戦記念日にあたって」の談話となる。

 

 安倍首相は自ら『戦後70年談話』を出すと公言した。「反省はするが、お詫びはしない」と、まるで稚児の口喧嘩の有様だ。戦後70年談話で隣国との緊張を意図的に高め、安保法制整備の世論対策に利用する危険きわまりない環境をつくりだしている。

 

 

〇 平成の日本改革の原点 (第10回)(海部政権での政治改革の挫折)(2)

 

 平成3年8月5日、海部政権は政治改革のための第121臨時国会を召集したものの、与党自民党内の反対や野党第1党の社会党が抵抗し審議入りに苦慮していた。ようやく8月20日、衆議院に「政治改革特別委員会」を設置し、特別委員長に小此木彦三郎議員を選んだ。

 小此木委員長は、改革推進派の羽田自民党選挙制度調査会長と親しく、さらに反対派旗頭の梶山自民党国対委員長との仲が良く、3人は誰もが知る親友であった。2人の板挟みとなった小此木委員長は毎日のように委員部長の私のところに相談というか、愚痴をこぼしに通っていた。

 

 9月13日、召集日から遅れること40日目にして政治改革特別委員会の審議が始まった。7人の自民党国対委員長委員が質疑を行ったが、5人が反対する状況だった。これを知った小沢一郎さんは病院を抜け出し、都内某所に私を呼び、対応を協議した。小沢さんの意見は、「自民党の若手の大半は賛成派だ。彼らの動きを活用して、何とか3法案を継続審査とし、政治改革の灯を消さないようにすべきだ。小此木委員長を説得しろ・・・」

 

 小此木委員長も政治改革の必要性を良く理解していた。自民党の若手との接触も多く、政治改革関連3法案を継続審査とすることで、取り敢えず臨時国会を収めたいと意図で「何とか悪知恵を出せ」と毎晩のように相談してきていた。

 9月26日の午後2時、小此木委員長の都内事務所に呼ばれ、2人だけで反対派の動きが激しくなったことに対応を協議した。その席に梶山自民党国対委員長から電話があり、「政治改革関連3案を委員長権限で廃案にしろ!」と迫っている様子だった。小此木委員長は「継続にしたい」と反論する。話は物別れに終わり、「委員長発言で継続としたいので、発言要旨をつくって欲しい」と、私に指示して小此木事務所での話は終わった。

 

 私は小此木委員長と梶山国対委員長の板挟みになり、困ったなと思いながら委員部長室に戻ると「平野が行方不明だ!」と大騒ぎになっていた。理由を聞くと、梶山国対委員長と与謝野国対副委員長が1時間ほど前から探していて〝平野を指名手配中〟とのこと。急いで梶山国対委員長室に顔を出すと、私が小此木氏と会っていたことがわかり、カンカンに怒っている。

 

 そのときの一コマは、

〇梶山 小此木がオレの指示に従わないのは、お前が後ろにいたからだ。オレは政治改革に反対だ。小沢と羽田とお前は水戸藩の書生派だ。自民党を潰す気か!。

〇平野 小沢さんや羽田さんら政治家と一緒にしないで欲しい。私は土佐藩で事務局の立場だ。小此木委員長を補佐するのが私の職務だ。

〇梶山 ナニィ!、オレの先祖は水戸の天狗党だ。政治改革関連3法案を廃案とするよう「小此木委員長発言」を、今すぐここで書け。

〇平野 私は衆議院事務局の職員だと申し上げたでしょう。与党とは言え一党の国対委員長の指示に従うわけにはいきません。

〇梶山 わかった。それなら小此木から指示するようにするので、「委員長発言」は小此木に見せる前に、オレに見せろ!

〇平野 貴方はそれほど人間を信用できないのですか。政治の根本は相手を信用することだということがわからないのですか。

(この一言で、梶山国対委員長は顔を真っ赤にして、怒りを露わにした。同席していた与謝野国対副委員長が心配顔で沈黙の時がしばらく続く)

〇梶山 わかった。まかせる。

 

 翌9月27日から小此木委員長と数十回にわたり「委員長発言」を協議。3日後の30日午後2時40分から開かれた、政治改革特別委員会理事会で提示することになる。       

(続く)

 

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