「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

「日本一新運動」の原点―315

             日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 北海道・京都の衆議院補選の結果をどう読むか!

 

 4月24日(日)に実施された衆議院補欠選挙(北海道5区・京都3区)で、野党統一候補に追い詰められた北海道5区では自公候補が僅差で逃げ切った。これをどう読むか。
 野党統一の池田まき候補は「勝負に勝って試合に負けた」といえる。市民連合の支援で野党統一による国政選挙は初めての体験である。安倍政権の中には、過去のデータを参考にして政権維持に自信を深めた発言が目立つが、その実体は鈴木宗男氏の裏切りと熊本地震それと従前からの利権誘導運動で試合に勝てただけだ。
 野党統一によるこれからの国政選挙には、この補欠選挙を参考に研究すれば勝利への道はある。課題として、共産党の「歴史的変化」が日本の民主政治の発展に貢献していくことを国民に理解してもらうことが必要だ。そのため「共産党物語」を、私の個人的立場から連載する。

 

〇 私の「日本共産党物語」 1

(明治憲法下での共産党の活動)

 

 わが国で共産党が結成されたのが、大正11年(1922年)であり、治安維持法の対象であったために官憲に弾圧され、敗戦までの物語は想像を絶するものだった。個人的な話で恐縮だが、土佐自由党保守本流の平野家から、戦前の非合法共産党に父方から1人(私の従兄)母方から2人(叔父夫妻)が入党した関係で、一族のトラウマと当人たちの苦難の道を子供ながらに承知している。
 昭和20年(1945年)8月の敗戦、そして連合国総司令部の占領体制のスタートは日本国の民主化であった。同年10月10日、政治犯3千人が釈放された。その多くは、治安維持法等で入獄していた共産党の活動家であった。10月には治安維持法等をポツダム政令で廃止し、共産党は本格的活動を始める。
 12月1日、共産党は合法化により第四回党大会を開き「人民開放路線」を基本方針とした。当時、共産党は連合国軍隊の日本進駐を「解放軍」と位置づけていた。12月18日衆議院は解散となる。ところが、総選挙が行われたのは、翌21年4月10日であった。旧選挙法は「解散の日から30日以内」に総選挙を行うことを規定していた。それを無視して、約4ヵ月後に総選挙を行うという異常さだった。理由は超国家主義者などの立候補を阻むためで戦争に協力した人々約20万人を「公職追放」とするためでもあった。

 総選挙の結果は女性が参政権を行使するのが初めてで「39名」が当選した。共産党が初めて国政選挙に進出して5名を当選させた。柄沢とし子(北海道)・志賀義雄(大阪)・高倉輝(長野)・徳田球一(東京)・野坂参三(東京)であった。この中で高倉輝が長野県出身となっているが、出生地は高知県幡多郡であった。高倉の父親が明治~大正時代に僻地医療で貧しい人々を救援した医師で知られ、同じ医師仲間である私の父と親交があった。また私の叔父・田辺清春(野坂参三の側近)が、高倉輝の先輩同志として指導したと聞いている。


 この総選挙は明治憲法の帝国議会時代最後であり、第一次吉田内閣であった。この時期、最大の問題は「食糧不足」であり各地で「米よこせ」デモが頻発した。当時、内閣書記官長(現在の官房長官)を務めていた、林譲治さんから聴いた話がおもしろい。

「戦前の弾圧から解放された共産党勢力がもっとも強硬姿勢だった。他の革新勢力は戦争協力者もいて勢いはなかった。徳田球一氏らに官邸で徹夜でカンヅメで追及されたが、最後は誉め殺しにあったよ。吉田総理の父親も林さんの父親も、明治時代の自由民権運動で、共産党より過激で2人とも専制政治に抵抗して監獄に入れられた。その血が流れる吉田さんと林さんが我々の気持ちをわからないはずはない。国民を飢え死にさせないでくれ・・・・と。吉田さんに伝え、マッカーサーと交渉して最悪事態を回避した。吉田さんはその後、衆議院本会議での、厳しい徳田質問にユーモアで答えたりして、立場は対立していたが、人間として認め合っていたよ」

 そういえば、昭和40年代の後半、佐藤内閣時代に衆議院予算委員会で、佐藤首相が共産党の不破書記局長の質問を誉めたり、質疑を楽しみにしていたという話も聴いたことがある。新聞には「自民党にも、不破君のような論客が欲しい」と語ったとも出ていた。保守でも革新でも、その本流にいる人物には共有する感性を持つというのが、私の見方だ。

 

(日本国憲法下の共産党の活動)

 
 新憲法による衆議院総選挙は昭和22年4月に行われ、共産党は4名当選する。同24年1月の総選挙では、35名という驚異的当選者を出す。この時の社会党の当選者は48名であった。原因は、折角新憲法で成立した片山社会・民主・国民共同連立政権が、社会党の内部抗争で崩壊し、次の芦田民主・社会・国民共同連立政権も、汚職疑惑事件で潰れて政局不安。それに米ソ冷戦が始まり、米国政府が日本の財閥の復興や労働運動の規制を始めたことなどによる。

 民主党など保守票が吉田自由党に流れ、社会党などの革新票が共産党に流れたことによる。ところが昭和27年10月の総選挙では共産党の当選者は零となる。この原因には、きわめて深刻な問題があった、それは昭和25年から始まった「レッド・パージ」である。
 昭和25年(1950年)1月6日、コミンフォルム(欧州9ヶ国の共産党などの組織)が、日本共産党の指導者・野坂参三の占領下での平和革命論を批判した。共産党は激しい内部対立となる。この時期、米ソ冷戦は激化していた。昭和24年10月には、中国共産党は中華人民共和国を成立させ、翌25年6月には朝鮮戦争が始まるという事態が起こった。

 さらに吉田政権は講和条約を米国と交渉中であり、ダレス特使から日本の再軍備を強要されている時代であった。GHQは反共政策を強化させ、昭和25年6月、マッカーサー書簡で共産党の徳田書記長ら24名の中央委員を公職から追放した。この時衆議院議員で退職者となったのは、徳田球一・野坂参三・志賀義雄・春日正一・神山茂夫・伊藤憲一・聴涛克巳であった。

 同月には「赤旗」の発行がマッカーサー指令で停止され、7月にはマスコミ関係社の従業員のレッド・パージが勧告され、それが基幹産業などの民間企業一万社に拡大された。9月には閣議で政府職員のレッド・パージが決められ、1200人が追放された。

 共産党では10月に徳田・野坂が北京に亡命し、地下指導部が武装闘争方針を決める。火焔瓶戦術とか、山村工作隊、球根栽培法といったことが話題になり、それらがさらなる弾圧となった。当時私は土佐清水市で暮らしていて中学生だった。従兄の田辺安里(上田耕一郎氏の東京での幼馴染みで、ともに故人)が高知県西部地区の共産党の責任者で、警察の取締りが強くなると、吉田首相や林衆議院議長と親しい開業医の父親に救援を求め我が家に滞在して、私に政治への不満を語っていた。 

 昭和27年4月28日、対日講和条約等が発効して、我が国は独立国となる。同年10月の総選挙で共産党は107名を立候補させたが、当選者はなかった。翌28年4月の〝バカヤロー解散〟での総選挙は1名を当選させた。昭和30年2月の総選挙で2名、同33年5月の総選挙で1名、同35年11月の総選挙で3名、同38年11月の総選挙で5名を当選させ、少しづつではあったが、衆議院での政治勢力を伸ばすようになった。米国や保守政権が国民に植え付けた「武力闘争」というイメージを払拭するのに苦労をしていた。

 

(自社55年体制での共産党の活動)

 

 私が衆議院事務局に就職したのが〝60年安保〟の前年、昭和24年の秋であった。法政大学大学院修士コース時代、警職法反対闘争で学生運動をやり共産党入党寸前だった。吉田元総理の推薦で某テレビ局のペーパーテストを受け、好きな本に「資本論・矛盾論・実践論」と書き、関係者に迷惑をかけ、林元衆議院議長に説教されることになる。

「2年間政治活動をせず、政治の現実を見ろ。それでも共産党に入る決意なら、俺が親父を説得してやる」と言われて、衆議院事務局の臨時職員となる。林さんは、私を高卒と学齢詐称までして雑巾がけをさせた。自民党大物政治家が共産党入党寸前の若者を、今でいう「国会議員による口利き・裏口採用」であり、狂気といえることだ。騙された気がしたが、今になって思えば土佐の先人が拘った議会民主政治と自由民権の精神を継承させるためだった。

 私は昭和36年に、大学院修士コース修了者として衆議院参事に任用された。日本政治の現実をみてこれを改めるためにはマルクスや毛沢東の理論では実現できないと思うようになっていた。この年には、共産党が「新綱領」を発表し、議会民主主義を基本方針とした。奇妙な縁だ。
 以後、私の事務局での裏仕事は、議会体制内政治に馴染まない「共産党」と「公明党」の相談相手となることであった。

(続く)

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