「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

「日本一新運動」の原点―316

 日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 
〇 法政大学教授・山口二郎氏との政治展望!

 

 4月30日(土)、デモクラTVの「永田町風雲録」収録で、相手役の鈴木哲夫氏に急用ができ、山口二郎法大教授(政治学者・市民連合指導者)の突然の出演となった。山口教授とは非自民連立政権が崩壊した直後、放送大学で「非自民政権の成立と崩壊」を講義されていた時期、私が取材対象となってからの知り合いである。

 冒頭、私から「60年安保の2年前、法政大学大学院政治学コース在学中、治安維持法の再現と言われた警職法改悪反対闘争で、全国大学院自治会連合会を組織し勝利した。共産党から目を付けられて入党を誘われたことがあった。懐かしい母校の教授と議論できることに敬意を表したい」というと、山口教授は「私はその年に生まれました」とのこと。司会の早野氏は驚き、僕は中学生だった」と。

「飯の数は自慢しないが、人間を見る眼には自信がある。それにしても、元東大教授だった舛添東京都知事や、安倍首相ブレーンの北岡氏といい、人間性に問題がある。東大法学部の教育に問題があるんじゃないか?」と冷やかすと政治学の大御所、丸山真男ゼミの英才と言われるご両人にひと言もなかった。

 山口教授は北海道補欠選挙について、市民運動を指導した立場から「自公の、組織をフル活動した選挙に負けた。野党の協力が十分でなかった。1+1で、2にしかならないようではこれからの国政選挙では勝利できない」と厳しい反省。私の意見は「勝てると思っていた。負けるにしても、もっと僅差と予想していた。自公の伝統的選挙構造を、4野党協力が崩せなかったことが敗因。4野党協力の付加価値が出れば勝つと思った。それが出せなかったのは、民進党の政権担当能力に疑問があるせいだ。原発・消費税増税に反対しないと・・・・・」

 

 山口教授は「市民連合は選挙活動の手足にはなれるが、国政選挙だから政党の指導がいる。小沢一郎さんが選挙区に入ることを、民進党と連合の一部が実現させなかったことなど問題がある。民進党の反省がなければ、7月の国政選挙は野党が負け、我が国は取り返しのできない事態となる」と、極めて深刻な話となる。

 早野氏が「これからの政局展望も含めて」と話題を拡げる。山口教授からは「安保政策でも経済政策でも、対立する政策を思いつきで出して選挙用なのか、政権運営でも政策展開でも矛盾が出てきており、安倍政権の支持率は下降してきた。安倍政権に陰りが出た」との意見。私は「毛沢東の『矛盾論・実践論』から分析すると、安倍政権の政策破綻は矛盾とはいわない。矛盾なら対立を止揚することでエネルギーが出る。安倍首相のやったことは、東西南北から系統性のない政策のゴミを集めて人気取りのためだけだ。それらが混乱を起こし、東芝や三菱自動車、そして日銀のやっていることは、日本資本主義を崩す過程に入ったといえる。数年も経てば、自民党が消えていく。政治は一挙には変わらない。民進党が反省しないと自民党より先に消えるが、新しい市民運動の流れは出てきた。悲観することはない」と答えて議論を閉じた。

 

〇  私の「日本共産党物語」 2

(自社55年体制での共産党の活動)(続)

 

 私は昭和36年2月、7等級の特別職国家公務員に任命されて、翌年7月には6等級を飛び超えて5等級(係長)に抜擢される。これは衆議院事務局発足以来初めてのことで、当然のこととして職員組合は人事のあり方で抗議する。昇格を待つ先輩職員から村八分になる。組合活動にも入れずに孤立状態を続けていると2年後には議院運営委員会係長に昇格という無茶苦茶な人事の洗礼に遭う。ここでよく相談に来たのが議員では議運委員会理事の金丸信氏、他に石田博英の書生・山口敏夫氏でこの時「珍念」という綽名をつけた。先週の「週刊ポスト」でお詫びをしておいた。

 昭和39年秋の「日韓国会」で、国会が大混乱となる。船田・田中衆議院正副議長は、佐藤栄作首相の指示により、日韓基本条約等を憲法違反と言われる強行採決を行い、引責辞任することになる。後任に山口喜久一郎・園田直両氏が選ばれ、国会正常化と国会改革を行うことになる。園田直副議長といえば池田政権時代に国対委員長として「寛容と忍耐の国会運営」を創造した敏腕家であり、佐藤人事の妙といわれた。一方、園田直といえば、女性問題と秘書を酷使することで知られ、従前からの学歴秀逸で電話番的人物の秘書では通用しないとなり、「この際、潰れても致し方なし」と、私が副議長秘書に起用された。

 副議長秘書といえば、従前の仕組みからすれば国務大臣秘書官と同じ扱いとなる。各省では40歳前後で起用される。私は30歳になって20日目だったので、またもや事務局の人事が異常と批判が出る。必然的に私への恨み・つらみも集中する。この時期は、自社55年体制の最盛期であり、民社党は23名で自社対立の国会運営で漁夫の利を求めて不浄な動きをして、事実上自民党政治を陰で支えていた。公明党は衆議院に議席を持たず、共産党は林百郎・加藤進・谷口善太郎・志賀義雄・川上貫一氏の4名であった。院内交渉団体となれず、林百郎議員が議院運営委員会のオブザーバーとして連絡役であった。共産党の院内活動が、自社55年体制に影響を及ぼすことはほとんどなかった。それでも、副議長秘書として儀礼的な連絡などで林百郎議員や事務室の職員との接触が増え、そのうち共産党から非公式に相談にくるようになる。

 昭和40年代に入ると、共産党は国政選挙で順調に議席を延ばしていくようになる。衆議院・昭和42年―5名、昭和44年―14名、昭和47年―40名(内2名共産系無所属)。参議院・昭和40年―4名、昭和43年―7名、昭和46年―10名、昭和49年―20名。 この躍進の背景には、昭和30年代後半の議会民主主義を基本方針とする「新綱領」の成果による。「武力革命」のイメージが国民から薄れてきたこと。除名した過激派などが70年安保闘争で暴動を繰り返したことが、共産党の平和主義路線を定着させたともいえる。さらに昭和42年に公明党が衆議院に進出し25名を当選させた。共産党と公明党は支持層で競合しておりその関係もあったと思われる。(公明党の問題は私の著書を参照されたい)

 共産党が国会で勢力を拡大させるにつれ、衆議院事務局でも従前のような対応をできなくなった。具体例で説明しよう。

 昭和44年頃、インフレで物価が高騰し商社などが生活必需品を買い占める事件が続発した。国会でも問題となり「消費者基本法」が制定された時期である。悪質な企業を国会で追及していた時だった。委員部調査課で先例担当の課長補佐の私のところに、共産党の林百郎議員から「証人を喚問した先例を知りたい」と、電話があった。「わかりました」と答えて第1回国会からの証人喚問のリストを届けた。調査課長に事後報告したところ「そんな重要な資料を、なぜ共産党に出したか!」とカンカンに怒り委員部長に報告に行った。委員部長に私が呼ばれ「証人喚問の先例を教えるなど国会運営に共産党が関わることになると大変だ。事務総長と相談して事後対応を考える」と言い残して、知野虎雄事務総長に報告に行った。委員部長が戻ってきて「事務総長から私が注意されたよ。官報でも、広報でも、そして会議録でも、公表していることを、平野君が知らせて何が悪いのか。もし隠して〝出せません〟とでもいったら、そっちの方が問題になるぞ!」と。

 この時期までは一事が万事、国会事務局の姿勢は共産党に対してこうであった。多くの管理職クラスの発想が政府自民党のためということで、健全な国会運営など期待できなかった。知野事務総長だけが改革派で異端の私に目を付けて抜擢を続け、私を困らせた。知野事務総長は共産党の変化を見抜き、近々に院内会派として交渉団体となる共産党の議席拡大を予感し、事務局の改革を断行しようとしていた。その時が、昭和47年秋、田中角栄政権の衆議院解散・総選挙で出現する。

 昭和39年の東京オリンピックの直後から同47年6月まで、長期政権を続けた佐藤政権の後継は「今太閤」といわれた田中角栄となる。『日本列島改造論』を提唱、『日中国交回復』を矢継ぎ早に実現し絶対の自信を持って衆議院を解散・総選挙を断行した。結果は自民党は議席を減らし、共産党は3倍近くの40名(共産系無所属を含む)とした。野党第2党となり、これまで「社公民」が「自」と談合し、共産党を排除してきた国会運営に、楔を打ち込むことになる。             

(続く)

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