「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

「日本一新運動」の原点―317

  日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 小沢一郎が田中角栄から「一度だけどやしあげられた」話の真相!

 

『日刊ゲンダイ』の5月5日号はゴールデンウィーク特集号で、「小沢一郎角栄ブームを語る」は好評のようだった。この中で、「貴様!この馬鹿野郎、と怒って」の話が傑作だったが、本人が事実を語れない事情があったようだ。この問題は私が深く関わっていたので、前後の話を含めて、事実を述べておこう。

 

(ロッキード問題で〝政治倫理制度〟つくりのため、

議運委員長になった小沢一郎)

 

 昭和58年12月、小沢さんは、事実上田中角栄の命令で衆議院議運委員長に就任した。角栄さんはこの年の10月に東京地裁のロッキード裁判で有罪の判決となる。政治倫理制度をつくり、田中元首相に議員辞職を迫る世論が高まった。野党は決議案を提出、自民党は対応を迫られていた。当時、私は衆議院委員部総務課長で、議運委員会を担当し政治倫理制度つくりの事務局で責任者であった。

 田中元首相は第一審で有罪になったものの無罪を確信していた。政治倫理制度をつくるにしても、田中個人を肴にしてつくることを嫌がっていた。田中政権時代の前尾衆議院議長秘書だった私は、格別に角栄さんに目を付けられ、漫画のような付き合いだった。「一郎を頼むよ!」と、早坂秘書を通じて頻繁に電話があった。

 小沢議運委員長就任の翌日、私に「憲法の、国会事項を勉強したいので協力してくれ」とここまでは良かったが、その先が問題だった。「国民から選ばれた議員を、議員辞職決議案の過半数で辞めさせることは憲法違反となる。他に何か良い知恵はないか考えてくれ」と宿題を出された。「そんな無茶苦茶なことを」と抵抗したが、明日まで待って欲しいと即答を避けた。

 翌日、2人で極秘に会い「昭和20年代、新憲法の運用で両院法規委員会でこの問題が議論されたことがある。しかし、これは憲法の拡大解釈となるということで封印された。小沢さんが絶対に他言しない。政治の場に出さない。勉強の材料とするだけと約束するなら説明しましょう」というと、約束を守るということで、私が話したことは次の通り。

「国民から選挙で選ばれた議員を議院の議決で辞めさせる制度は、憲法58条の懲罰で除名することで、出席議員の3分の2以上の多数による方法しかない。憲法でいう懲罰というのは〝院内の秩序を乱す〟ことが対象となっており、院外での行為は対象となっていない。院外の行為でも院の秩序や、権威を乱すことを懲罰の対象にしては、という意見があった」と。

 小沢議運委員長は、納得して一応は収まったもののそれからが大変だった。当時の衆議院事務総長の弥富啓之助氏が、司法試験合格者で憲法に煩く、憲法の神様・宮沢俊義の『日本国憲法―コメンタール初版』(昭和三十年)には「院外の行為でも著しく院の権威を乱すことは、懲罰の対象になると解釈できる」と記載していることを見つけた。それを議員辞職の制度をつくることに拘っていた社会党の議運理事に知恵をつけたのだ。

 社会党が議運理事会でこれを提案すると小沢議運委員長は「待ってました。かねてから検討していたこと」と、私が止めるのも聞かず乗ってしまった。問題は、田中元総理をどう説得するかになる。小沢委員長は説得に自信を見せる。私は「事後法禁止で、角栄さんには適用されないとはいえ、それだから余計に怒りますよ」と止めるのも聞かず、梅雨晴れの暑い日に説得のために目白の私邸まで出かけた。
 3時間ほどして院内に戻り、「いや、バカ野郞!と怒られた」と失敗を報告するということになる。その日の夕方、電話で田中事務所の早坂秘書から「小沢も小沢だが、平野は補佐していない。何をやっているのか」とのこと。よく考えてみると、怒った角栄さんも立派な見識だが、怒られた小沢一郎も「怒られても実現させる」と立派な見識。その後、私がすったもんだして「小沢構想」を潰すことになるが、その物語は次号で!。

 

〇 私の「日本共産党物語」 3

(自社55年体制での共産党の活動)

 

 田中角栄首相が『日本列島改造論』を提唱し、『日中国交回復』を実現させて満を持して衆議院を解散し、総選挙を断行したのは、昭和47年12月10日であった。結果は次の通りである。

 自民党―284(前回300)、社会党―118(前回90)、共産党―40(前回14)、(総選挙直後に39名の会派で届けたが第71回国会閉会中に無所属の瀨長亀次郎氏が参加、共産党・革新共同となる)、公明党―29(前回47)、民社党―20(前回32)。

 この選挙結果に恐怖を感じた田中首相は、衆議院に小選挙区を導入することで共産党の拡大を阻止することを考える。年が明けて昭和48年3月末、そのための公職選挙法の改正案をまとめるよう政府与党に指示する。野党は激しく反発し、国会審議をボイコットする。自民党の中にも慎重論があった。5月の会期末になって中村梅吉・河野謙三衆参両院議長の斡旋で、田中首相が小選挙区制を断念して事態が収拾された。

 小選挙区制度を巡る一連の騒動で重要法案の審議が遅れ、自民党は単独で65日間の会期延長を強行した。野党は再び反発して審議を拒否、中村衆議院議長の斡旋で収拾したものの、その直後、中村議長が「野党を騙した」という放言が問題化して辞職。後任に自民党の前尾繁三郎氏が選ばれ、「単独審議は行わない。会期の再延長も行わない」と野党国対委員長に約束し、公正な国会運営のため自民党の党籍を離脱した。

 この時の最大の問題は、自民党の国会運営に対する姿勢で衆議院議長に重要法案を強行させて、その引責辞任で国会の正常化を図るという連続であった。これは自社55年体制の特質といえるものだ。その結果、新憲法のもとで衆議院議長の平均在職期間が「1年7ヶ月」という異常さで、議長の権威が地に落ち政治不信となっていた。中村議長の後任人事に自民党は頭を悩ませ、良識派長老の意見を入れて、前尾繁三郎氏を起用した。

 総理級の大物政治家を衆議院議長に起用したことで大騒ぎになったのは衆議院事務局であった。当時、知野事務総長は就任して6年目、普通なら2~3年で交代するが、後継者が育たないために与野党から懇請されて続けていた。事務局の人事はすべて事務次長以下に任せていた。総理級の衆議院議長ということで、上がってきた議長秘書候補は課長級の知野事務総長の義弟であった。怒ったのは知野事務総長で「公私混同するな。これで国会運営ができると思っているのか」と激怒。すったもんだして、事務総長の指名は「平野貞夫」であった。

 私は議運委員会担当の課長補佐になったばかりで、人事で3度も恨みを買うなら辞めた方がましだ。すると深夜に委員部長から内示があったので、「無茶な人事は止めて欲しい」と抗議した。翌朝は議長選挙の日、早めに出勤したところ、知野事務総長から直接に電話。事務総長室に呼び出され、知野事務総長から断れない話。「君を指名したのには理由がある。第一は、これ以上私が事務総長を続けることは事務局の人事にとって最悪となる。私をできるだけ早く、混乱させずに辞めさせることが君の仕事だ。

 第2は共産党が野党第2党となった。自社55年体制は変わらざるを得なくなる。共産党も完全な議会制政党に脱皮せざるを得ないだろう。これまでの自社体制との調整に混乱が起こるだろう。前尾議長は戦後の政治家でもっとも理性的判断のできる人物だ。全力で前尾議長に奉仕して欲しい」。

 この話には個人の都合は通用しないと覚悟し、「わかりました」と素直に返事した。ところが事態はとんでもないことになる。

 前尾議長が就任して最初に私に質問したことは「国会には憲法を始めとして、山ほどの法や規則がある。与野党が大紛糾して話がつかず、議長が判断することになったとき、何を基準にするべきか」。私をテストしているのだなと思い、「根本的には時代の常識というか、良識ではないですか」と答えた。合格となったらしく、「いま『政(まつりごと)の心』を執筆中だ。手伝ってくれ」となった。

 

 ところが前尾議長に代わっても国会の紛糾は後を絶たず、会期切れになっても重要法案が参議院に山積して、国民生活に影響が出るようになる。前尾議長は自民党の再延長要求を半分に削り、再度65日の延長を強行した。この時の議長秘書・私の共産党への対応に問題があるとして、正常化が不能となった。 

(続く)

 

《余談》3年前、故あって事務局の手で「政の心」の中古本を手にれて貰ったことがあり、当時は3千円弱だった。それが今では最安値で1万円、最高値5万円弱だという。今の時代に求められている考察だからであろう。

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