「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

「日本一新運動」の原点―326

             日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 第24回参議院選挙で話しておきたいこと!

 7月11日付の朝日新聞に、次の記事が載っていた。〝生活の青木愛氏「一番最後の奇跡」〟の見出しで、

 

「10日投開票された参院選の比例区で、最後の一議席は生活の党と山本太郎となかまたちが獲得した。元職の青木愛氏(50)が11日早朝に当選を決めた。東京都北区の事務所で開票結果を待っていたという青木氏は「やきもきしていました。奇跡のような一番最後の議席なので、格別な喜びがあります」と語った。「(今回の選挙では)党の唯一の議席。子育てや教育などの政策に力を入れたい」と述べた。

 

 青木愛の比例区最後の当選は、本人の言うとおり「奇跡の議席」である。昨年来この参議院選挙は野党協力で「オリーブの木方式」を活用すれば、参議院で与野党逆転の可能性があると見て、私は高知勝手連を中心に各地で活動してきた。かねてからの小沢生活の党代表の宿願であり、総力を挙げたが、民進党執行部の不見識のため実現できなかった。

 

 結局「生活の党」独自で比例区に挑戦することになり小沢代表の胸中はこれまでの政治活動の中で、最も厳しいものであった。私の見方は「比例区で百万票獲れば、1人の当選は可能だ」というもの。小沢代表からは可能性の最も高い「青木愛」を活用したいとのこと。自前の東京12区と故郷の千葉県を中心に、個人名で10万票を確保する方策を基本方針とした。

 そこで、日本一新の会の会員にはご迷惑をお掛けしたが、メルマガやデモクラTVなど、私が顔を出す機会の全てを「小沢代表を再び政治の北極星とするカギは、青木愛の比例区議席確保だ」と訴えてきた。他の「生活の党」比例区候補四名には、大変申し訳なかったとお詫びしたい。

 

 新著『田中角栄を葬ったのは誰だ』を上梓した直後の6月19日、私は「青木愛総決起大会」に押しかけた。角栄さんが学んだ「中央工学校」の近くに会場があった。「田中角栄は、ロッキード事件で葬られた。小沢一郎は、陸山会事件という政治の暴挙に襲われたが未だ生きている。これらの『権力の犯罪』を葬るためには、小沢一郎氏は政治の真ん中で活躍しなければならない。それには青木愛さんの比例区での当選が絶対に必要だ」と叫んだ。

 

 選挙は数字として私が予想した結果となったが、選挙戦の実状は数倍も厳しいものであった。中盤ではほとんどの世論調査が、比例区の生活の党の当選予想はゼロというものが続き、絶望的なものだった。まさに青木愛自身が述べた「奇跡のような一番最後」のひと言が実感である。

 私はこの「奇跡」ということばに拘りたい。全ての開票が終わった11日(月)正午すぎ、何人かの知人から不思議な話が電話で伝わってきた。1人は男性で、「小沢代表が、終盤の野党協力の応援で、必死の演説を中継したネット映像を見たが、小沢さんの後ろに『観音さん』が見えたよ。もう1人は女性で「8日に放映された柏市の布施弁天の妙見堂前で、青木愛さんが語っていた映像の後ろに『菩薩さん』がいた」との話に驚いた。他は略す。

 

 実は後半戦の戦略について悩んでいた私は、ネット技術に優れたボランティアの方々と相談して小沢代表と青木愛の先祖の歴史に共通なものがないか探した。そこには、小沢代表の父親の故郷には北辰妙見思想の岩手、母親は平将門で知られる千葉は相馬郡の生まれである。青木愛に至っては、千葉は安房国出身で徳川家康の夫人「養珠院―萬」の生まれた地である。「萬」は家康に、妙見信仰の民衆の救済を説いたことが知られている。

 そうだ、小沢代表は平将門に繋がる改革者であり、青木愛は萬の思想を継承すべき運命を持つといえる。こういった説明を語りながらのネット映像ができあがった。この映像はとても多くの人たちが見たようだ。しかし、『観音さん』や『菩薩さん』の話は別にして、ネットの活用は新しい時代に入ったといえる。物語と撮影場所と技術によっては、映像に大きな影響を与え、見る人によっては、「深層心理」が醸し出す幻覚を感じることができるかも知れない。

 なお、参議院選挙の政治的評論は、7月13日発売の『サンデー毎日』にコメントしている。次号で詳論したい。

 

〇 私の「共産党物語」 12

 

 昭和48年に前尾衆議院議長が実現した頃共産党は野党第2党(公認38名、共産系無所属2名で40名の会派)に躍進する。これまで述べたように、共産党は試行錯誤を繰り返し、議会内政党になろうと努力していた。

 年始には各党幹部を衆議院議長が招いて懇談する慣行があり、共産党は料亭を嫌うので議長公邸で夕食会を開くことになる。酒が入った前尾議長が「大正時代の関東大震災の頃、旧制高校でヘーゲルもマルクスも読んだよ。マルクスの弁証法を日本のマルキストは誤解しているよ」と、共産党幹部に議論を仕掛けていた。共産党幹部も「こんな人物が自民党にもいたのか」と、それなりに楽しんでいた。議会政治は思想の「相対主義」が前提であり、一定の教養とユーモアがあれば話は弾むものである。

 

 昭和61年7月の中曽根政権は、憲法を冒涜した「死んだふり解散」で、衆参両院の伯仲状況が終わる。中曽根自民党の圧倒的多数勢力の中で、共産党は国会の行事に協力しながら、復活した自民党の暴政に孤高の正論で対応することになる。

 この国会伯仲時代に、共産党が天皇の出席する開会式に出る気持ちになっていたところを、自民党の党利党略のため実現できなかった事件が起る。それは「福永健司議長更迭事件」である。

 

 福永議長は昭和58年12月の総選挙後の特別国会で選ばれ、同60年1月に辞任した。その理由が問題だ。実は、福永議長は戦後の吉田茂政治から、新憲法での国会運営では政界一の見識と知恵を持っていた。議長にはふさわしい人物であったが健康に難があり、腰と足に障害があった。議長に就任して約1年間は職務に差し障りがなかった。

 議長職で、何故腰や足に障害があると不都合があるのか。その理由は開会式で天皇陛下から「お言葉」をいただく時、その証書を5段くらいの会談を昇って受け取り、そのままの姿勢で後すざりで降壇する慣行になっていた。福永議長の場合、完全に後ろ向きに階段を降りられない程度に腰や足の障害が悪化していた。従って、天皇陛下に「お尻」を向けて降壇することが問題となった。

 

 この時期、議会内政党化に懸命であった共産党は、福永議長の見識に学び天皇陛下が出席する開会式に出席することを検討していた。ところが中曽根自民党政権内に「福永議長更迭論」が噴出してきたのである。表向きの理屈は「健康上の理由」で、腰や足の障害で天皇陛下に「お尻」を向けることになるのは失礼になるから・・・との話であった。本音は自民党内の派閥問題で、宏池会所属の福永議長は健全な議会民主政治実現のため、議長の権威や運営の正常化について厳しい政治家であった。率直にいって、中曽根首相と発想が合わないことにあった。これが政治の実体である。

 

 当時の衆議院事務局としては、従来の慣行を改めて「お尻」を向けて降壇することもやむを得ない、補助者がついてもよい、杖の使用もあると、開会式のあり方に関して改革を提案したが、政権側の中曽根首相側に押し切られた。共産党はこの機会に開会式に出席することを検討していたが、「そこまでも明治憲法の慣行に拘る自民党」に反発して、開会式に出席する協議を取りやめた。

 困ったのは、福永議長を説得する議院運営委員長の小沢一郎氏であった。私が議運担当課長で同行した。本来正当な理屈で説得できる話ではない。そこで小沢議運委員長と相談して、開会式の慣行など理屈の説明をしないことにした。中曽根政権の状況を説明し、伯仲国会の難しさと、日本の議会政治がこのままでは駄目になるとの世間話から始めることにした。福永議長と小沢議運委員長の父親・小沢佐重喜氏は、戦後の吉田政権で苦労を重ねた仲できわめて親しかった。

 福永議長は報道などで、政治の雰囲気を承知していて、来訪の趣旨を事前に承知していた。ご自分から進退について話を切り出され、説得の必要はなかった。2人は安堵して退室した。

 

 あれから30年という歳月が流れた平成27年12月、立憲主義を冒涜した安保法制政治に対抗して、4野党が協力してこれからの国政選挙に臨むことになった。年末、小沢さんと会ったとき、「志位共産党委員長から、1月の常会開会式に出席することになった」との話があったとのこと。

 動かないと思っていた時代が、激変することを感じた。

                         (続く)

コメント
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

nipponissin1

Author:nipponissin1
   代    表 : 平野 貞夫
   顧    問 : 戸田 邦司
   事 務 局 : 大島 楯臣

カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
動画
 
最新記事
リンク
一新のトランク
最新コメント
カテゴリ
月別アーカイブ
RSSリンクの表示
Translation Tools
QRコード
QR
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!
Powered By FC2ブログ