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「日本一新運動」の原点―355

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              日本一新の会事務局

 

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            日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 安倍首相の『ハマグリ演説』はとんでもない嘘言である!

 

 1月20日(金)の第193回通常国会の召集日、安倍首相は施政方針演説で、江戸時代の土佐藩で家老の野中兼山がハマグリを放流した逸話にちなみ「350年を経た今も、高知の人々に大きな恵みをもたらしている」と発言した。これは国会での憲法論議を進めることに下心があったようだ。

 自由民権運動の精神を継承する『高知新聞』は翌21日の朝刊で事実に基づく批判記事を出し咬みついた。「高知はハマグリ乏しい」―「首相演説〝今も兼山の恵み〟ウソ」―「漁業関係者ら異論続々」の見出しで、5段抜きの大キャンペーン報道であった。

 22日(日)午後、私は8ヵ月ぶりに高知市を訪問、山原記念館や墓参をして、夕方からの高知勝手連の懇親会に出席した。実はこの会合で『安倍首相のハマグリ演説』が話題となり、野中兼山といえば『土佐南学』の中興の祖だ。平成時代の土佐南学研究といえば〝平野貞夫〟しかいない。安倍首相の嘘言を放置して良いのかとさんざん発破を掛けられた。

 

(安倍首相の「ハマグリ演説」要旨)

 安倍首相は施政方針演説の締めくくりで、満を持して「子や孫のために、未来を開く」として、兼山のハマグリ養殖の話をした。土佐湾でハマグリ養殖を始めたのは、江戸時代、土佐藩の重臣、野中兼山だったといわれています。こうした言い伝えがあります。

「おいしいハマグリを、江戸から土佐に持ち帰る」

兼山の知らせを受け港では大勢の人が待ち構えていました。しかし到着するや否や、兼山は舟いっぱいのハマグリを全部海に投げ入れてしまった。ハマグリを口にできず、文句を言う人たちを前に、兼山はこう語ったといいます。

 

「このハマグリは、末代までの土産である。子たち、孫たちにも味わってもらいたい。兼山のハマグリは土佐の海に定着しました。そして350年の時を経た今も、高知の人々に大きな恵みをもたらしている。まさに「未来を開く」行動でありました。

 

 続けて、安倍首相は「自らの未来を、自らの手で切り開く。その気概が、今こそ求められています」と、兼山の逸話を乱用して憲法改正への方向づけを無理やりに押しつけた話となる。

 

「憲法施行70年の節目に当たり、私たちの子や孫、未来を生きる世代のため、次なる70年に向かって、日本をどのような国にしていくか、その案を国民に提示するため、憲法審査会で具体的な議論を深めようではありませんか」と。

 

(土佐南学の中興の祖・野中兼山とは)

 国会で安倍首相が、野中兼山のハマグリ演説をした20日(金)の夜、私は安倍首相が狸禅ならぬ「狐禅」をしている谷中の『全生庵』で、「田中角栄の凄みと弱さ」と題して若い経営者などに説話をしていた。知人からハマグリ演説の情報を聞いていて安倍首相がどの程度「兼山」を知っているのか気にしていた。案の定、まったく無知で役人のつくった原稿を、自分の知識であるかのように格好をつけてしゃべったのだ。発言を陳謝し訂正すべきだ。

「兼山」の逸話は沢山ある。それだけ活躍した人物だが、逸話のほとんどは後世の兼山ファンが創作したもので、事実を無視した話が多い。確かに兼山は、ハマグリの養殖を漁民救済として実施したが、失敗であったことは兼山研究者なら知られた話である。

 そこで兼山はどんな人物でどんな活躍の人物だったか、簡約に説明しておこう。

 野中兼山は元和元年(1615年)1月姫路に生まれた。実父は土佐藩の家老であったが、事情があって浪人であった。幼児期に実父を失い土佐に帰り野中直継の養子となり後嗣となる。17歳(22歳の異説あり)で兼山は土佐藩の奉行職を勤めた。寛文3年(1663年)失脚するまで、執政の任に当たり土佐藩政の隆盛と経済の振興に全力を尽くした。

 兼山の施政哲学は、鎌倉時代に土佐で暮らした夢窓国師から始まる『土佐南学』であった。これは朱子学から始まったが、兼山時代に「知行一致」といった陽明学的実学となり、藩政や経済の改革で、土佐藩が幕末に活動できる基盤をつくり明治維新につながった。

 土佐の殖産振興での兼山の功績は大きく、新田開発・河川改修や灌漑用水路・堰・港湾の整備などを手がけ、21世紀の現在も使用しているものがある。漁業では捕鯨・鰹節、山間部では和紙・椎茸・木材・木炭・漆喰などを開発して土佐ブランドとして全国に展開した。

 安倍首相が引用した逸話は高知新聞によると『先哲叢談』(1816年刊)からで、江戸中期までの儒学者の伝説をまとめたものからのようだ。高知は貝類の宝庫であり、私が子どもの頃には天然のハマグリを捕った記憶があるが、量としてはアサリ貝が圧していた。現在では高知の海岸・砂浜でハマグリが捕れたという話は聞いたことがない。

 兼山は土佐の振興策に止まることを知らない情熱をもち、そのため他を顧みない方策から怨念の声が上がるようになる。寛文3年藩の上下から排斥運動が起こり執政の座を追われる。同年12月に不遇のうちに憤死する。

 

(野中兼山の死後、土佐に伝わる霊言)

 よい機会なので兼山の死後、土佐に伝わる彼の霊言を紹介する。兼山が土佐藩の執政に就くまで土佐藩の民心は乱れ、長宗我部の残党の蠢きが収まらなかった。兼山は長宗我部郷士を殖産振興に活用し、土佐の酒飲文化を改革していく。従って評判や人気がよいはずはない。兼山の民衆教育は「知行一致・奉仕勤倹・相互扶助・多目多聴」という土佐南学の行動規範であった。

 兼山が政権を追放され急死(毒殺の疑あり)すると、翌年遺子たちは土佐国幡多郡宿毛の地に送られ幽閉される。兼山の子孫を残さないためである。四男が死亡して男系が絶えると、女子の婉(えん)が44歳で赦免される。朝倉村(現高知市)に住み女医として貧しい人々を救った話が残っている。大原富枝の歴史小説に『婉という女』がある。兼山の活動や悲劇を描いたもので知られている。

 土佐国幡多郡といえば、四万十川・足摺岬・宿毛湾という陸の孤島である。私の生まれた三崎村は宿毛の近くで、古くから行き来が多く親族も多い。父の親友で宿毛病院の家系に跡取りがなく、四男の私が養子に行く話が何回かあり、野中兼山の話を散々聞かされた。

 兼山一族を幽閉として預かったのは、山内藩主の分家で、ここで兼山一族は幽閉とはいえ、父兼山の偉業を思い地域全体で大切にし、子孫が絶えた後も丁重な供養をした、と伝えられている。私が衆議院事務局に勤務するようになる直前、慶応病院に入院中の林讓治元衆議院議長に、何度か昔話を聞いたのが「兼山の霊言」であった。

 幕末、宿毛の殿様伊賀さんが続けて兼山の夢を見ることがあった話だ。「兼山の子孫は絶えたが、わしの信条を理解する人たちが、宿毛や幡多には沢山いる。この中から日本をつくる人物がでるようになる」という夢での霊言だよ。

 思うに、幕末から維新にかけて、あれだけ宿毛の血をもつ人間が活動できたのはなぜか。吉田茂の父親の竹内綱、僕の父親の林有造、大江卓、『国憲汎論』を書いた小野梓、岩村通俊、小野義真、中村重遠、岩村高俊らがいる。僕のような出来の悪い政治家でも、敗戦後の混乱で吉田首相を手伝えたんだ。みんな、何かの縁で兼山につながり、影響を受けているんだよ。

 

(「兼山」の思想に学ぶべし)

 兼山の失脚は、土佐藩内での遺恨が本当の原因ではない。兼山の施政により藩士や住民が節酒令などで健全となる。ベンチャー事業が発展、尾長鶏は遺伝子操作、漆喰はセラミック技術などの現代技術の原点といえる。海辺や山間にある資源の活用、農漁・商工のバランスのよい地域作りを成し遂げた。この土佐藩の隆盛を警戒した幕府が仕掛けたのが、兼山の事実上の追放であった。

 幕末、坂本龍馬ら商家の子弟が1年間に百両も掛けて江戸留学ができ、それが維新の原動力にもなっていく。その基盤をつくったのが兼山であり、現代も大いに学ぶべきだ。安倍首相も嘘言で兼山を評価するだけでなく、真の「土佐南学思想」が国民を幸せにし、国を発展させることを学んで欲しいものだ。   

(了)

 

(今週は、〇 日本人と『憲法九条』は休ませて頂きました)

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