「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

「日本一新運動」の原点―366

            日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 時局妙観

(「教育勅語」を問題を考える)

 

 森友学園への国有地売却問題が発覚したことを切っ掛けに、この学園の教育方針に「教育勅語」が活用されていることが報道された。安倍首相夫妻がこの教育理念に賛同して、私立小学校設立に協力していると、学園の籠池理事長が国会の証人喚問で発言し、大騒ぎとなった。

 安倍内閣は「教育勅語」について、「憲法や教育基本法に反しない形で、教材として使用を認めること」を閣議決定した。義家文科副大臣が、幼稚園などの朝礼で朗読することは「教育基本法に反しない限りは問題のない行為であろうと思う」と、国会答弁している。安倍政権は稲田防衛大臣はじめ、日本会議メンバーの政治家が多い。森友学園の幼稚園児が教育勅語を集団朗読するテレビ画像で、印象を悪くすることを日本会議派は危惧していた。この閣議決定で「思いかけない成果」との評価が出て、教育勅語

を肯定する動きが始まった。

 一方で珍しく安倍政権と「お友だち関係」の〝読売新聞〟や、〝日経新聞〟は、この風潮を心配したようで〝朝日新聞〟らと同じ論調で批判の社説を掲載している。その点は評価するが、各メディアだけでなく学者・有識者の「教育勅語」についての基本的認識に問題がある。日本議会政治成立史の研究者として意見を述べておく。

 

1)「教育勅語」は同時に発足した帝国議会への勅語でもあった。

 

「教育勅語」が公布されたのが、明治23年(1890)10月30日だ。この前後に明治国家体制の大きな整備が行われている。まず、前年の2月11日(紀元節)に「大日本帝国憲法」が発布された。ところがこの帝国憲法が施行された期日について知っている人はほとんどいない。

 帝国憲法の上諭に、

「帝国議会ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議会開会ノ時ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有効ナラシムルノ期トスヘシ」

と定められている。

 第1回帝国議会の召集のため、明治23年7月1日、衆議院の第1回総選挙が行われた。貴族院は同年6月10日に多額納税者の議員の互選が行われ、7月10日に伯・子・男爵議員の互選、9月29日に勅選議員を選定して構成を終え、10月10日に、第1会帝国議会召集の勅諭が発せられた。11月29日に開院式が行われ帝国憲法はこの日をもって帝国議会の発足と同時に施行されたのである。

「教育勅語」は憲法が公布され、衆議院と貴族院の構成が終わり、第1回帝国議会の召集勅諭が発せられ、帝国議会の開院式、即ち憲法の施行期日が11月29日と確定した10月10日から20日後の10月30日に公布された。この流れは憲法の施行に先だって、即ち帝国議会の開会を待って教育勅語の公布が行われたといえる。

 かねてから天皇絶対主義者たちが、憲法施行で最も危惧したことは、制限的とはいえ〝議会政治〟が始まることであった。教育勅語は天皇制国家の法的機構の確立に伴う精神的支柱として天皇を神格化し、直接に臣民(国民)に下賜(くだしたまわる)したものである。それは「忠君愛国」などを内容とし「皇運ヲ扶翼」するのが日本臣民の存在理由であることを内容としている。平和主義・国民主権・基本的人権を拒否し、戦前の治安維持法の根拠となったものだ。「教育勅語」を単に学校教育や社会教育の理念

という「教育方法」という範囲に矮小化してはならない。教育という名目で帝国議会を構成する臣民の代表者への宣言という狙いがあったと考えるべきだ。

 当時、この教育勅語に対して多くの有識者たちから批判の声が挙がった。代表例は福澤諭吉である。その説話を紹介すると当時の状況がよくわかる。

 教育勅語の実質的な執筆者は井上毅(こわし)である。明治憲政史の専門家・大久保利謙氏によれば「井上は、福澤恐怖という病気にかかっている愚者だった」と私は直接に聞いたことがある。原稿執筆の際、福澤の「文明論の概略・学問のすすめ等」の国民を啓蒙した〝独立自尊〟の思想に対抗して作成したといわれている。帝国議会は制約はあったものの自由民権運動の思想も入っており、それらを制限する役割が教育勅語であった。「教育勅語」とは、このような恐ろしい非近代性と非人間性を動機としてつくられたものである。これらのことがほとんど知られていない。

                    (続く)

 

 

〇 国会つれづれ  2

(政治学修士コースで体験した政治)

 

 法政大学大学院政治学コースの2年間は私の人生の運命的転機であった。両親は、兄2人が医師であるのに、私に開業医の家業を継がせようとした。当時、教養学部2年を終えて医学部に受験する制度で、たまたま法政大に医学部だけの某大学と合併する構想があって、「医進コース」が設けられていた。絶対合格しないことを確信し、親に泣きつかれ法学部と併せて受験したところ、医進コースに合格してしまった。2年経て法学部に転入するつもりで、理科系の勉強をすることも何かの役に立つと思い一応親の

顔を立てた。ところが社会科学の勉強が不足していて、政治学修士学コースでは困った。

 ここで学問の厳しさを会得することができたのは大きな収穫であった。その上、大学院学友会(自治会)の委員長に左翼運動を知らない私が祭り上げられた。しかも、「60年日米安保条約改定」の2年前、政局の混乱が始まった時期であった。岸内閣が安保改定反対運動を取り締まるため、「警察官職務執行法改悪案」を国会に提出して大騒ぎとなる。

 この「警職法改正反対運動」を「日米安保条約改定反対運動」の前哨戦として、法政大学大学院学友会は、全国の大学院の自治会に反対運動の統一協議会結成を呼びかけ、50校が参加して統一反対運動を盛り上げた。「警職法改悪案」は戦前の治安維持法を悪質化したもので、岸内閣の池田・三木・灘尾の三閣僚が辞職する事態となる。「デートで捕まる警職法」というキャッチフレーズを流したり、反対の有識者・文化人を組織するまではよかったが、東京駅で特急はとや、つばめを線路に入って止めるなどは

批判を受けた。

 警職法改悪案は国民の総反対で審議未了となる。その後、共産党代々木派から私に入党を奨める人物が現れた。法大共産党細胞のトップだった。一高東大では上田耕一郎氏の同志で、メーデー事件で退学となり、法大の博士課程に籍を置く活動家だった。幹部候補として処遇すると熱心に説得されたが、「考えてみたい」と即答はしなかった。

 その後、連日のように説得を受けたがある出来事で日本の左派文化に疑問を持つようになった。昭和34年に〝ダライラマ事件〟が発生し、中国の『人民日報』が社説でダライラマ批判論文を掲載した。法大で行われた国際政治学者らの研究会で、私がその社説を論評・報告することになった。そこで毛沢東の『矛盾論・実践論』の方法論から「将来、中国とソ連など社会主義国家間で矛盾や対立が生じる」と結論づけた。参加した研究者のすべてから批判を受けた。私は左派学者のイデオロギーのドグマを実感し、社会主義や共産主義に関心を持ちながらも、その限界を知った。

 

(衆議院事務局に就職して学んだこと)

 

 政治学修士コースは2年で終わる。修士論文は英国の国際政治学者『EHカー論』で「政治における理想と現実の統合」であった。父親に「文化人類学」を勉強したいと頼んだが、〝共産党入党寸前〟との情報を知って許してくれず、吉田茂・林譲治という同郷の政治家に泣きついて就職させてくれと頼んだ。当時、吉田家の家老役を務めていた依岡顕知氏が、東京で私の親代わりで、林副総理・衆議院議長秘書・益谷衆議院議長秘書を勤めあげ、戦後の吉田政権の裏方で苦労人だった。

 衆議院事務局に勤めるについては、この依岡さんに散々苦労を掛けた。その裏話は『戦後政治の叡智』(イースト新書)『野党協力の深層』(詩想新書)に既述しているのでここではふれない。入局早々に偶然に学んだことを紹介しておきたい。

 60年安保改定の騒ぎの後、当時事務局が追い込みにかかっていた『議会70年史』の編集を約1年、私も参加することになる。大学院修士課程で、遠山茂樹氏の「自由民権史」のゼミに参加していたおかげで非常に役に立ち、星享の当選回数の公式記録が誤りだったことを発見したりした。

 実は前段の「教育勅語問題」でふれた福澤諭吉と井上毅の関係の話は、この時、議会制度成立史を担当していた立教大学教授・大久保利謙先生から直接聞いたことである。大久保教授は明治の重臣・大久保利通の孫でアカデミックな研究で知られ、福澤諭吉を高く評価していたことが面白かった。

       (続く)

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