「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

「日本一新運動」の原点―367

            日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 時局妙観

(「教育勅語」を問題を考える―2)

 

2)有識者の歴史観に問題あり!

 4月19日(水)の朝日新聞(朝刊)『耕論』で、「教育勅語の本質」が採り上げられていた。東大名誉教授・三谷太一郎氏と、日大教授・先崎彰容氏の論調である。三谷氏は1936年生まれで教育勅語の教育を受けている。先崎氏は1975年生まれで、教育勅語に対する実感的なものはない。

 三谷氏は「良心の自由を否定する命令であった」とし、現憲法19条に反すると、憲法政治学者の立場から論じている。先崎氏は「不安の時代を画一化する兆しとなる」と、日本思想史の研究者の立場から、今回の教育勅語騒動は掘り下げて危険性を考えるべきだと論じている。この両氏の主張については賛同するが両氏の論で共通しているのは、教育勅語の成立過程、つまり、立案者である「井上毅」に対する歴史観である。

 三谷氏は、起草に関わった(法制局長官)井上毅の手法について「〝臣民の良心の自由〟に介入することを法的に整合性がとれた形でどう説明するか、頭を悩ませていた」とし、井上が考え出したのは「社会に向けて公表される天皇の〝著作〟で、それを臣民が自発的に共鳴する、という法理論的整理で〝苦慮の奇策〟とのいうべきフィクション」と分析している。そして、今回の教育勅語騒動について、憲法19条の立場から「安倍内閣は、それをまったく念頭に置かず、教材として使えるという閣議決定をしました。せめて明治時代の井上法制局長官の問題意識を共有すべきだ」と論じて、井上を評価している。 先崎氏は「井上毅は〝立憲主義を守る〟ことと〝国民の内面の自由を確保する〟という二つを重視し、教育勅語が明治憲法に違反しないよう心を砕いていた」とし、井上は勅語が人々の心の自由を奪わないよう、針の穴を通すような努力をして、慎重に文章をつくり上げようとした」と、同じく井上の手法を評価している。

 井上毅については、伊藤博文のもとで明治憲法の起草にあたり、開明官僚として活躍したことは私も承知している。だからといって、三谷氏や先崎氏のように、井上を評価するわけにはいかない。井上が天皇の神格化と臣民の基本権を「苦慮の奇策」で教育勅語というフィクションをつくったことが、天皇を「現人神」とする悲劇の源となったのだ。井上が〝福沢諭吉恐怖症〟であった話を知らないようだ。

 教育勅語が発布された翌年の明治24年、第一高等学校講師の内村鑑三は教育勅語に対する拝礼を拒否したために、不敬罪として職を追われた。当時、進歩的有識者や開明官僚と呼ばれた人たちが、次々と井上の奇策に乗り勅語の支持者となっていく。明治27年に日清戦争が始まり、日本国内が戦時体制となるや「忠君愛国」は勝利のためのナショナリズムを高揚する旗手となる。

 福沢諭吉は明治31年に病に倒れたが、門下の高弟に『修身要領』を編纂させ「独立自尊」を徳目の基本とすることを主張した。これは「教育勅語」の支持者・井上哲次郎らと大論争となるが、東アジアの緊迫で福沢の主張は退けられていく。こうして、明治37年には「日露戦争」が始まる。日露戦争が終わるや、「日清・日露戦争の勝利」は「教育勅語」の功績という世論が拡大し定着していく。

 時代は「大正デモクラシー」となる。天皇機関説・民本主義・社会主義等の民主化運動の流れが始まる。しかし、天皇制廃止を主張する共産党対策のためとはいえ、制限的普通選挙制度と取引で「治安維持法」が制定される。これは「教育勅語」から影響を受けたもので、根拠となったといえる。昭和に入ると軍部と官僚の政治支配が次々と戦時体制をつくっていく。その原因をつくったのは戦争を金儲けの手段とする資本や堕落した政党にあるといえる。

昭和10年には国体明微問題即ち、「天皇機関説」の提唱者・美濃部達吉が不敬罪で告訴される。貴族院議員を辞任し不敬罪は起訴猶予となる。翌11年には「2・26事件」による武装反乱が突発する。こうして、中国への宣戦布告なき戦争から太平洋戦争に至り、教育勅語でがんじがらめにされた若者が戦地に送られ、「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいくことになる。今の北朝鮮が同じような情況といえる。

                          (続く)

 

〇 国会つれづれ  3

(「60年安保国会」をめぐる悲喜劇!)

 

 「60年安保国会」で私は初めて日本政治の現実を実感できた。それは、林譲治元衆議院議長による「2年間政治の現場をみて、それでも共産党に入る気なら親父を説得してやる」という謀略?に乗ったからだ。現場とは、衆議院事務局で、それを仕組んだのは吉田茂家の家老職で東京では私の親代わりの依岡顕知氏だった。林譲治・益谷秀次と2代にわたって衆議院議長秘書を勤めた人物だ。私は昭和34年の11月頃には修士論文を書き上げて、安保反対運動に専念していた。そこを依岡氏のシナリオで〝高卒〟という〝学歴詐称〟の資格で口利き就職し、勤めることになった。

 最初に政治の紛糾現場を経験したのは、同年11月27日、安保改定反対の総評や全学連のデモが国会周辺に押しかけて、その先頭にいた浅沼社会党書記長ら議員4名が、国会正門からなだれ込む事件であった。「国会構内乱入事件」として、浅沼書記長ら4名は懲罰委員会に付されることになる。

 衆議院事務局には、本会議の運営事務を担当する議事部、委員会(当時、常任委員会・特別委員会合わせて26)の運営を担当する委員部、他に警務部、記録部、そして管理関係の部があった。私は委員部第一課に配属され、まさに政治の現場中の現場である。野党第一党の書記長を懲罰委員会に付すという、前代未聞の国会紛糾を体験した。

 年が明けて1960年1月20日、日米新安保条約が調印され、2月5日国会に提出された。11日には衆議院に「日米安全保障等特別委員会」を設置し「安保国会」が本格化する。私の仕事は、まず特別委員会運営の現場ではなく、後方支援事務で国民からの請願が安保特別委員会に付託されたものを整理する事務であった。

 合計して600万人をこえる国民からの「安保反対請願」を、毎日集計して分類する仕事である。当時は計算機などがあるはずもなく、ソロバン苦手の私にとって業務不能であった。それに密かに対応してくれたのが、隣の席の女性タイピストで、新入りの私が高い評価をうける実績をつくってくれた。

 その女性と2年後に結婚することになるが、一昨年3月に79才で急逝した「妻・操」である。私の人生は不得意なこと(英語やソロバンなど)が切っ掛けに、変化してきたといえる。

 昭和35年の所謂「60年安保」の国会審議は議会史に残るものであった。攻める野党も守る与党も死力を尽くした。 最後は20万人を超える国民が国会議事堂周辺を埋めるなか、衆議院に500人の警官隊を入れて野党の妨害を排除し、本会議を開会して新安保条約を強行採決した。参議院では審議がほとんど行われず衆議院承認だけで憲法の規定により自然成立した。

 この新日米安保条約について「日本の安全保障がその後確保される根拠となった」と岸首相を評価する論がある。それよりも、「安保国会」の審議で、野党から提起された問題点を、政府側が尊重せざるを得なくなったことにある。「条約の修正権問題」・「事前協議」・「極東の範囲」等がその後の東アジアの平穏状況を保ったといえる。国会で問題のある案件が強行成立しても、審議の内容によっては、施行後も大きな影響を与えることができるという好例であった。

「60年安保国会」は政局にも大きな影響を与え、岸首相が退陣し「寛容と忍耐」の池田勇人を首相とする政権に代わる。国民意識も変化し厳しい政治運動から生活向上運動が主流となる。国会でも従来の強行運営を反省し、国民から信頼される議会政治へと進化せざるを得なくなる。そのためには事務局の意識改革と専門的な知識の導入が必要となった。「安保国会」を機会に、大学院で憲法学や政治学を学んだ人材を採用することになる。

                          (続く)

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