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「日本一新運動」の原点―380

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 時局妙観  (日野原重明先生から教えられたこと)

 

 7月18日、聖路加国際病院名誉院長の日野原先生が逝去された。105歳まで現役臨床医として活躍され、人間の「いのち」の大切さを世界中の人々に伝えた偉大な人物だった。「ジョン万次郎記念事業」がご縁で10年ぐらい前から薫陶を受けていた。

 私は2ヵ月毎に柏市内の名戸ヶ谷病院で健康診断を受けている。名戸ヶ谷病院の山崎誠理事長には「日本一新の会」の貴重な維持会員としてお世話になっている。

 診察の後、研修生の若い人材を中心に私が時局の話題を解説し、質問を受ける懇談会を行っている。7月21日の懇談会は『日野原先生から教えられたこと』をテーマとした。その時の話を整理・加筆して要点を紹介しておきたい。

 

1)日野原先生との出合い 10年ぐらい前、日野原先生は友人から、「ジョン万次郎の恩人であるホイットフィールド船長の家が米国フェアーヘブンに残っており、崩壊寸前で再建運動が現地で始まっている。資金が不足しており日本でも協力して欲しい」との話があり、万次郎の研究を始めた。

 平成19年秋に、私が『ジョン万次郎に学ぶ』(イプシロン出版企画)を刊行し、日野原先生はその本から万次郎の人生と自分の生涯を連動させ、財団をつくり、ホイットフィールド家の再建のために資金づくりをすることになる。

 その財団の発起人に、政界から不破哲三(共産)・土井たか子(社民)・与謝野馨(自民)を入れることに成功し、日野原先生は私を過大評価、銀座ロータリークラブとか交詢社などで、私が万次郎の話をする機会をつくることになる。

 その時期、日野原先生は96歳で『いま伝えたい大切なこと―いのち・時・平和―』を執筆中で、平成20年1月に出版された。この本が「いのち」と向かい合う医師のあり方としてすばらしい。是非お読みいただきたい。

 念のため、昨日アマゾンで調べたところ絶版で、中古書で一冊一円とのこと。送料は約三〇〇円で、日本人の知性レベルの至らすところだ。

 

2)日野原先生の「非戦論」の原典 父親が牧師で賀川豊彦に師事、日野原先生も昭和初期第三高時代にキリスト教社会主義の影響を受けていた。 戦争を無条件に許さない思想を持ったのは1952年頃に米国のエモリー大学に留学し、ウイアム・オスラー内科教授の影響である。第一次世界大戦で一人息子を戦死させたオスラー教授の書簡がすごい。

 

「避けがたい戦争を避けるという難関を引き受ける者はだれか、 と問われれば、すべての民族に同じように血液が流れているこ とを、誰よりもよく知っている医師以外にはない」

 

 これを知った日野原先生は「どんな理由があっても戦争は避けなければならない。医療に従事する者が平和運動の中心になるべきだ。そのため日本での実践者となると決意した」と語っていた。

 日野原先生の原水爆禁止運動や憲法九条護憲運動、そして子どもたちに「いのち」の大切さを通じて、戦争のない世界をつくる運動は国際的に知られている。

 

3)日野原先生は「憲法九条改正」論者だった 「憲法9条は、『不戦』の思想で書かれており、不十分だ」との意見だった。独や伊のように自国の防衛のために軍隊を持ち、積極的には戦わないということでは駄目で、殺し合うこと自体を非人道とする「非戦」のガンジーの無抵抗論に徹すべきだとの論であった。

 そして「日本が他国から攻撃を受けることを否定できないが、現実問題として米国の核兵器の傘下にあることが大きな原因なのだ。米軍基地があるかぎり、平和憲法は空文だと」10年前に論じていた。

 この時、私は「専守防衛論」であり相当に日野原理論には抵抗があった。現在は「ミリタリーゲーム資本主義」という、国境を超えたマフィア資本が支配する世界情勢となった。北朝鮮など東北アジアを妙観するに、日野原理論は貴重な先見性のあるものとして、具体的な政策として手順を検討すべきと思っている。

 

 ところで財団の寄附は目標の5千万円をはるかに超えて、ホイットフィールド家は見事に再建された。日野原先生の楽しみは、ここで日米首脳会談を行い、世界に「非戦」の宣言をすることであった。その時の日本国首相はジョン万次郎の会会長の小沢一郎であるべきだ。

 

 

〇 国会つれづれ  9 (反吉田の政敵が吉田ワンマンに頭を下げた話)

 

 2日前までは見ず知らずの役所が派遣した世間知らずの若者を、愛人のマンションに呼びつけて「こういうことだからよろしく」と頭をさげる園田直という政治家。130年近い日本の議会史でも珍しい話だ。園田直氏とっては、大博打で私の人間性をテストしたつもりだったと思う。「よろしく」と言われて黙ってはおられない。「わかりました」と大声で返事したところ、「ニコッ」と笑った。

 昭和40年12月21日(火)午前6時の都内は冷え切っていた。待機していた副議長車は、大磯の吉田邸に向かってパトカー先導で出発した。午前11時開会の議院運営委員会理事会まで登院しなくてはならないという事情があった。副議長車内で園田副議長から話しかけられることに困ったことがいくつかあり、最大の問題は事務局の事務総長と事務次長のトップの人事だった。

 

 事務局では事務総長が議長を担当し、副議長を担当するのが事務次長であった。従って、園田副議長を担当するのは知野事務次長であった。園田副議長は知野事務次長をよく知っていると語り始めた。「実は、私が終戦直後に熊本県天草の一町田村の村長をやっていたとき、知野君は内務省から県庁に来て地方課長だった。僕と何時も揉めていた」。

 園田副議長の話は知野事務次長に良い印象を持ってなく、久保田事務総長の後任には簡単ではないぞ。「園田」への忠誠心、面倒をみよ、副議長職を成功させよという警告的要望だと私は理解した。知野事務次長はどういうわけか、学生運動経験の私に目をつけて異常な引上げをして周囲から批判を受けていた幹部だった。国会という化物の世界には私のような人間も必要だと思い、私の起用を理解した。

 大磯の吉田邸に近づくにつれ、ある心配事が私の頭をよぎっていた。まさか吉田元首相と直接に顔を合わせることはないと思うが、もし顔を合わせたとき、どうしようかという心配である。

 吉田元首相の最後になる総選挙、昭和35年11月には、吉田さんは選挙区の高知で、土佐清水に在住の私の父親を訪ねてくれたことがあった。その時、父親は共産党入党寸前の私が失礼なことをしたことを詫びてくれた。足摺岬が気に入って「120歳まで生きて、ここに別荘を建てる」と、機嫌良く話をしていたことを聞いていた。

 吉田邸の正面で山口議長と合流して玄関に入る。3センチぐらいの厚い絨毯が廊下いっぱいに敷き詰めてあり、一瞬、靴を脱ぐのかとためらった。吉田さんを長い間支えてきた「小りんさん」の案内で、靴のまま応接間に正副議長と同行の秘書2人が入った。ひと呼吸おいたところで吉田元首相が顔を出した。山口議長が起立して挨拶をしようとした時、吉田元首相は「議長、靴はどうした」と。山口議長の慌て振りは尋常ではなかった。松尾議長秘書が玄関からとってきた靴を履いて、ようやく挨拶となった。

 山口議長にしろ、園田副議長にしろ、吉田元首相の前では平静ではいられない事情があった。山口議長は吉田政権時代に与党に属しながら、党内では反吉田の7人組で暗躍し吉田退陣の急先鋒であった。園田副議長に至っては、吉田政権では野党として対峙していた。講和条約と日米安保条約に所属の民主党は賛成したが、園田さんは造反して有名となった。さらには2人が所属していたのが河野派で、吉田さんがもっとも嫌いな政治家がその年の7月に死去した河野一郎であった。

 佐藤首相の厳命で、山口・園田正副議長が早朝に就任の挨拶に行くのは「佐藤人事の深謀」であった。園田副議長を取り込んで長期政権を企むことであり、それが成功していくが、そのスタートでもあった。吉田・山口・園田の3人は政治の話はほとんどせず、吉田元首相から「佐藤君をよろしく」と語った後、蒋介石からもらった杖を話題にし、20分ほどで退室した。

 玄関まで見送った吉田元首相は、園田副議長の後にいた私に、「元気そうだな」とそっと声をかけてきた。それを戦時中に特務機関にいた園田副議長は見逃さなかった。国会に向かう帰途の車の中で、吉田元首相と私の関係を追求してくる。それが私の運命をつくるもとになったかも知れない。 

(続く)

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