「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

「日本一新運動」の原点―361

◇予備会員(会費切会員を含む)への配信は周回遅れで配信します。

  当ブログも同様に周回遅れで掲載しています。

 

              日本一新の会事務局

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

            日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 横須賀市での市民集会に参加して!

 

 3月12日(日)午後2時半から横須賀市で「左右を超えた野党共闘で亡国政権交代へ」という呼びかけで市民集会が開かれた。私が、昨年12月に刊行した『野党協力の深層』(詩想社新書)を読んでいただいた、横須賀で市民運動で知られた一柳洋さんのご縁で企画され、約100名の市民が参加してくれた。

 集会の第1部が私の「政権交代、左右を超えた野党共闘を語る」というテーマの話。第2部は「市民と政党(国会議員)が野党共闘を語る」というシンポジウムであった。政党側から、共産党の畑野君枝衆議院議員、自由党の木戸口英司参議院議員が参加し、横須賀市を中心に市民運動団体の代表がパネリストとして議論した。ここでは私の話を要点を記載しておくが、詳細は会員のご協力で、動画(https://youtu.be/zpK3Ws4JWvw?t=5m29s)がアップされている由、それをご視聴願いたい。

 

(横須賀は鬼門だった)


 41年ぶりに横須賀に参上した。今年82才なので、丁度人生の半分折り返し点だった。昭和51年3月20日で、防衛大学校の卒業式に出席する前尾繁三郎衆議院議長の御伴だった。河野参議院議長や三木首相も出席していた。ロッキード事件で日本中が大騒ぎしていたときで、事態の収拾で両院議長と首相の極秘会談が防衛大学校長室で行われて、秘書役の私はメモを採る役で強烈な思い出の地です。

 ここは龍馬の妻・お竜の終焉の地で墓参に来たかったが、気が乗らないトラウマがあった。それを話すと今日の政治状況につながります。私は平成16年に参議院議員を引退しましたが、この時、自民党OB長老の後藤田・野中両氏から引退するなとしつこく言われた。理由と問うと「小泉首相が一番嫌いな政治家は平野貞夫だ。嫌らしい質問に困ったという話だ。小泉政治は日本を滅ぼすので、引退せず、小泉政治を糾弾しろ」とのこと。両長老の誘いには乗れなかったが、横須賀に行く気にはなれなかった。

 

(四野党の国会共闘ができなくて、選挙協力ができるはずはない!)

 

「森友問題」での野党の追及は生ぬるい。四野党が究明のため協議会を設置して戦略戦術や調査情報を共有して追求すれば、倒閣できる問題だ。衆参両院とも自民党と民進党の2党の国対委員長会談で重要なことが、談合で処理されている。共・自・社3野党は「カヤの外」だ。野党がバラバラで個人のスタンドプレーでは政権交代なんてとても無理。

 安倍首相から「印象操作の質問はやめろ」とか、「疑惑をいうなら事実を証明しろ」といわれて、野党側はシュンとしている。これは議員の審議権を妨害する言動だ。印象操作で首相や閣僚の責任を追及するのが、野党の国会議員の仕事だ。「疑惑を持たれた権力者自らが解明して責任を明らかにしろ」というのが、『政治倫理要項』の第4項にあることを、衆参国会議員のほとんどが知らないようだ。

 オリンピック対策とか、テロ対策と言って『共謀罪』という、平成の「治安維持法」が提出されそうだ。成立を絶対に阻止すべきだ。そんなことより「首相等と官僚の忖度・共謀罪」を制定すべきだ。政治権力が、行政権力を悪用した「権力の犯罪」が目立ちすぎる。これは「岸信介」が創出したノウハウだ。国会が放置しておくと軍事独裁国家となる。

 

(4野党共闘を成功させるためすべきこと)

 

1)国民の投票行動 45回総選挙で、比例票約2900万票を得た民主党は政権交代を成功させた。46・47回総選挙の比例票で民主党は2千万票を失い、政権から下りた。この2千万票は、自民・公明に移っていない。棄権票として投票率を著しく下げている。この票を野党選挙協力で4野党に戻せば政権交代は実現できる。国民は安倍政権の受け皿を待っている。

 

2)その選挙協力協議が進んでいない理由は民進党にある。支持団体の「連合」の原発推進の要求を拒否できないからです。それだけでなく、安倍政権が「集団的自衛権容認の解釈改憲」により9条を葬り、グローバル軍事資本主義を世界にリンクさせた歴史認識を民進党がせず、連合の軍事産業労組の呪縛から逃れることができないからだ。民進党がこれらのことを反省し、共・自・社と心ある市民連合と手を組まなければ国は滅びる。

 

〇 日本人と『憲法九条』 7

(「慶長の法難」の行方)

 

「慶長の法難」をわかりやすく言えば徳川家の菩提寺である「浄土宗」に法論を挑む「日蓮宗」に対して、徳川幕府が宗教弾圧を行った事件であった。その原因とは、日蓮宗側が浄土宗を「念仏無間」と批判したことに始まるといわれている。念仏信仰について「現実逃避であり誤っている」ということである。こう批判されると浄土宗にとっては、存立にかかわる問題である。大御所・家康を使ってでも対決しなければならない事情があった。

 日蓮宗に対する徳川幕府の弾圧に対して、敢然と起ちあがったのが、家康の側室・お万の方が尊崇する恩師・身延山第22世の「日遠上人」で稀代の名僧であった。上人は駿府に出向き、家康に「廓山」と法論の機会を願い上げすることを準備しているところに駿府奉行から久遠寺「折伏停止の誓書を差し出せ」との命令書が届く。

 日遠上人は、再び身延には帰らないと決意し、駿府寺町の宿所として活動を始める。まず、家康に書状を出し命令書の見直しを懇願する。家康は「念仏無間」という主張を続けると宗派の争いが絶えす、国家が落ち着かないので日蓮宗の折伏を禁じるのだ」と上人の願書を拒否した。上人はこの家康の命を受けないどころか「今一度、浄土宗との法論を願いたい。破れれば、日蓮宗こぞって浄土宗に服する」と、浄土宗との再度の対決を懇願した。

 激怒した家康は「法論の結果いづれの一宗に改宗となれば国中が大乱となる。いたづらに願い出るとは、謀叛人も同然」とし、慶長14年5月12日、五刻(午前8時)に安倍川畔で処刑すると命じる。日遠上人はもとより覚悟の上のことであり、お預けとなった感応寺で法華経に一命を捧げる冥加を思い読経三昧の日々を過ごすことになる。

 さて「お万の方」は、どのような状況であったか。慶長12年から、お万の方は駿府の城に家康とともに移り住み、二人の愛児・長福丸(後の紀州藩主頼宣)と鶴千代(後の水戸藩主頼房)とともに喜びの暮らしに入る。しかも近くの身延山久遠寺には法華経信仰の恩師がいたのだ。人生の至福を迎えた矢先に「慶長の法難」が起き、それは「駿府の法難」に転化していった。お万の方の心は千々に乱れ、迷いに迷い、生涯最大の危機となる。

 お万の方は、日遠上人を救うことが家康のため、我が子のためだけでなく国のためと覚悟を決める。その方法は身をもって家康に歎願することであった。お万の方が駿府城中奥の家康の居間で、家康に日遠上人を赦免するように諌めた様子を戸田七郎氏の著書から要約しておこう。

 

1)上様は常日頃、余は戦のために戦をするのではない。打ち続く戦国の世を治めて、民農民のために、この地上に泰平を呼び戻すためだと申していた。御仏の心を心とした言葉だ。

 

2)それが法華宗の僧侶の耳を切り鼻を削いだ上に、日遠上人を磔にしようとしている。昔、秦の始皇帝は天下を統一したとはいえ、多くの儒者を穴埋めにして万巻の書を焚き、某君の悪名を残した。わが国でも信長の延暦寺焼き討ち秀吉のキリシタン26人の磔殺は民の心を傷つけた。

 

3)この上、上様が日遠上人を磔にし、日蓮宗徒を虐待されても、決して身延の法燈は消えない。後世の人々は、上様を何と申しましょうか。上様のため惜しみます。

 

 このお万の方の真情に、家康は耳を傾けず日遠上人の処刑の日は近づいてくる。力も尽き果てたお万の方が、苦しみの中で処刑の前日に思いついたのは、このままでは天下(日本国)の統一も水に流れるとし、師の日遠上人とともに法華経のために我が命を捨てるほか道はないと覚悟を固めた。

「命を大切にする」という法華経の本旨を超えて、家康を諌めようということである。死出の装束を準備中のお万の方の居間に偶然、長福丸と鶴千代が御機嫌伺いにくる。そこで母の異常を知った2人の子にお万の方は、事の次第を話し「信心を怠らず、君に忠、民に仁を行い、世の鏡人の模範になれ」と別れの言葉を言う。2人は「このみ教えは決して忘れません」と健気に答えたもののそのままにはでき

なかった。深夜、父・家康の寝所に入り「母上様は明日安倍川原でお仕置きになる日遠上人にお供して、身を捨てる覚悟のようです」と訴えた。驚いたのは家康であった。      

(続く)

「日本一新運動」の原点―360

◇予備会員(会費切会員を含む)への配信は周回遅れで配信します。

  当ブログも同様に周回遅れで掲載しています。

 日本一新の会事務局

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

            日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 森友学園事件の悍ましい背景を考えよう!

 

 ここ数年、安倍政権への〝タイコたたき〟を一生懸命にやってきた「巨大メディア」が、さすがに森友学園事件については「おかしなこと」があるぞと連日大々的に報道しているのがこの事件である。野党も大ハッスルして安倍首相夫妻に疑惑があると迫っている。

 森友学園が国から有益費1億3千176万円もらって、224万円つけて返したら、2650坪の土地が手に入ったわけだから、国民が疑惑を持つのも当然だ。財務省理財局・国交省航空局・大阪府が協力して知恵を絞らないと実現できるはずはない。当然、政治家の口利きが予想される。さまざまな疑惑の中で、安倍首相は国会答弁で「妻が犯罪者扱いされ(夫妻への)印象操作の質問はやめてくれ!」と、ワメイテ逃げ回っている。この様は国辱ものでしかない。

 そもそも国会というところは、野党が時の政権に疑惑があれば、印象操作により真相を追求するところである。総理大臣というのは国会で貶されたり、悪態をつかれたり、煽てられたりするのが仕事なのだ。そのため国会議員は、憲法51条で「議院で行った発言」について院外で責任を問われない「免責特権」をもっているわけだ。

「安倍晋三記念・瑞穂の国小學院」との名称で資金集めに利用され夫人が名誉学校長に就任して「設立申請」された小学校である。「名前を使われたが了承していない」とか、問題となってから後に夫人が名誉学校長を辞めたとしても、安倍首相夫妻の思想信条を生かす学校法人として評価していたことは答弁でも述べていたとおりである。だから協力していたことは事実であり、財務省や国交省・大阪府が全力を挙げて「権力の犯罪」を行わざるを得なくなった事件だと思う。

 森友学園事件の国会での追求をみるに、野党の追及が生ぬるい。何故か、森友学園事件の本質と背景についての認識が甘いからだ。衆議院予算委員会でもっと厳しい追求ができたはずだ。3月5日のNHKの国会討論会で、公明党の魚住参議院議員会長が「森友学園から口利きを頼まれた政治家は民進党にもいるのではないか」と、印象操作的発言があった。それに民進党の代表者は反論しなかった。ここら辺もひとつの問題だ。

  今後のために野党の戦略・戦術について意見を述べておこう。

 

第一、この問題について参議院では何故自民党と民進党の国対委員長会談だけで談合しているのか。他の野党は何故抗議をしないのか。参議院は自社55年体制を温存しており、参議院民進党は民主党時代から自民党に裏でつながった病気がある。こんなことでは野党の選挙協力などできるわけがない。多分、連合執行部の影響を受けているからだろう。

 

第二、民進党は何故、森友学園・籠池理事長を証人として出頭要求をしないのか。最初から参考人要求とは何事か。証人要求をして、妥協として参考人出頭となると「籠池参考人」でも、国民からは「証人的参考人」と見える。籠池氏への心理的影響が違うことになる。自民党は多分、「参考人招致」も拒否するだろう。その場合どう対応するか。民進党を説得して「四野党森友学園問題究明議員協議会」を結成することだ。正規の委員会で自民党が究明を妨害してくれば「究明議員協議会」を国会内で開き、協力してくれる関係者や専門家を招致し、事件の異常さを報道で国民に知らせ、国民世論を盛り上げて究明の特別委員会を設置することだ。

 

第三、財務省や国交省が、森友学園との協議文書を廃棄したとの問題だ。私の経験でいうと必ず残して隠していると思う。理由は、この種の問題は訴訟になる可能性が高いからだ。6日の集中審議で、森友学園への国有地売買について「将来にわたる一切の瑕疵について国の責任を免除する特約がなされている」と答弁している。これは国は相当に無理をしているが問題になっても森友学園は国の責任を追及できないよ、と言い含めたと言える。これからの展開で、ここら辺が国の傷口となると思う。

 

第四は、この森友学園事件は、単に安倍首相を含む口利きによる不正な国有地払い下げ問題としてみるべきではない。昨今の安倍政権は、憲法九条を解釈改憲して集団的自衛権の行使を容認する安保体制をつくった。武器輸出3原則を緩和し軍事費を増加して、戦前軍事国家への道を拓いた。その流れで軍事的教育機関を設立することに協力した事件であることだ。これらのことを野党が十分理解しなければ本質に迫ることはできない。

 

 

〇 日本人と『憲法9条』 6

(「慶長の法難」とは、どんな事件か!)

 

「慶長の法難」について私はまったく知らなかった。広辞苑を開いてもなく、手持ちの大百科事典にも載っていなかった。何回か紹介した戸田七郎氏の、『女心仏心』―養珠院お万の方の生涯―(日蓮宗新聞社)で初めて知った。日蓮宗を信奉している友人たちに聞いても、知っている人はいなかった。

 徳川家康に関係することなので、昨年12月にミネルヴァ書房から刊行された、家康研究の第一人者・笠谷和比古(国際日本文化研究センター名誉教授)の『徳川家康』―われ一人腹を切って、万民を助くべし―という435頁の大作を読んでも、ひと言も触れていない。

 これは私の判断ミスかと、再度戸田氏の『女心仏心』を読み返した。私の結論は、日蓮宗派の各宗教団体も家康研究家も、重大な見落としがあるのではないかと思うようになった。これを掘り起こすことで徳川体制の真実や日本人の深層心理の中に「生命の大切さ」の感性があることを証明できると確信している。そこで、戸田七郎氏の労作から「慶長の法難」を要約して解説しておきたい。

 

 戸田氏は岩波書店刊、歴史学研究会編『日本史年表』から慶長13年の代表的事件として「幕府、江戸で浄土・日蓮の宗論を行わせ日経を処刑する」との記載を取り上げることから始めている。「日経」(にっきょう)とは京都法華経妙満寺の第27世の日経上人のことで、博学重厚の傑僧として知られていた。当時の仏教各宗派は様々な問題をかかえ、日経上人は仏教改革を弁じ、他宗派に問答を挑んでいた。徳川家は芝増上寺を菩提寺とする浄土宗を信奉していることで知られ、日経上人の法論に困惑していた。

 日蓮宗の日経上人と浄土宗の芝増上寺源譽大和尚・学頭廓山らが、江戸城で問答を行うことになり、日経上人は江戸へ向かう。法論問答を行う期日の沙汰を待っていたところ、11月15日の早朝、幕府の役人がきて「15日午(うま)の刻(午前11時から午後1時)、江戸城内で浄土宗との問答を差し許す。遅滞なく罷り出よ」とのこと。日経上人が問答の判定者などについて質問しようとすると、次の間に押しかけてきた60人ぐらいの武士が、無理無体に上人を滅多打ちにし、半死半生状態とした。

 戸田氏はこの狼藉を「正当な法論では勝つ見込みのない芝増上寺か幕府、あるいは両者示し合わせての悪策かは知る人ぞ知るであります」と述べている。言葉を発することもできない日経上人が、問答に臨むことはできず、弟子たちが延期を願った。「戸板に乗せて罷り出よ」との厳命で戸板に乗せて登城することになる。

 

 城の広間には大御所・家康を始め、将軍秀忠ほか重臣たちが並び、浄土宗側は芝増上寺の源譽大和尚、弁論で名のある学頭廓山ら。判者として高野山の賴慶、その他天台・真言・禅宗などが聴衆を許されていた。家康の「時刻はすでに過ぎたり」の命で問答が始まった。浄土宗の廊山から一、二の問を発したものの、日経上人は仮死状態から意識を取り戻したばかりで、口を開くことさえできず、無言のままであった。上人の弟子五人は問答の延期を申し入れたが聞き入れられず、判者の賴慶は「日経返事に窮す。廓山対者に打ち勝ちたり」と浄土宗側の勝ちとした。

 日経上人は弟子とともに袈裟と衣を剥ぎ取られ、「以後は宗論はいたさぬと一札を書いて差し出せ」と命令されたが拒否した。家康は大いに怒り、翌14年正月「江戸追放、京都において処刑する」ことになる。2月末、京の町を引き廻され、六条河原で処刑の直前、「死一等を減じ、耳切り・鼻そぎ刑に処するものなり」として残忍無比な刑に処した。弟子の一人は深手のためその夜果てたが、日経上人は生命をとりとめた。

 この日経上人と宗門に対する不当な弾圧に対して、敢然と起ちあがったのが身延山久遠寺第21世・心性院・日遠(にちおん)上人であった。「日遠上人」は、お万の方が尊崇する恩師であった。当時の仏教界には比肩する者のない学徳兼備・稀代の名僧といわれる人物だった。日遠上人は、一門の興亡にかかる大事件とし、大御所に謁見して、再度「廓山」との対決を要請することを決意した。「家康」と「日遠上人」の対決が「慶長の法難」から家康が目覚めるドラマとなる。              

                         (続く)

「日本一新運動」の原点―359

◇予備会員(会費切会員を含む)への配信は周回遅れで配信します。

  当ブログも同様に周回遅れで掲載しています。

 

              日本一新の会事務局


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

            日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 「五島正規先生を偲ぶ会」に出席して

 

 2月19日(日)、高知市の新阪急ホテルで「五島正規先生を偲ぶ会」が開かれた。昨年11月14日に逝去し、家族葬を済ませていた。高知県では県立病院や勤労病院院長など地域医療で貢献したことで知られていた。平成2年に衆議院議員に高知県区で社会党から当選、民主党を経て平成17年まで勤めた。

 私の生家が医者であったこともあり、五島先生とは衆議院議員に当選する前から交流があった。当選時には、私が衆議院事務局委員部長で社会労働委員会の運営などで相談を受ける仲であった。私が平成4年に参議院議員に当選すると五島先生は社会党改革派で、党派は違っていたが国会改革などで政治の刷新運動を一緒に行動した。平成15年の民由合併で、民主党で一緒に活動するようになる。五島先生が議員辞職後参議院を引退していた私が引っ張り出されて、民主党県連代表を、ノーバッチで三年間勤めた。逝去されるまで足掛け13年間、高知県政だけではなく国政全体の同志として活動した仲であった。

 

(「故人を偲ぶ会」は、過去の人の出合いを再生する)

 

 五島先生を偲ぶ会には、3百人を超える友人が全国から駆けつけていた。式典は10人の弔辞や思い出話などで厳粛に行われたが、驚いたのは何十年ぶりに会うとか、何かの切っ掛けがないと会う機会がない人とか、初対面の人でも共通の友人がいたとか、会合の前後の控え室での懇談がおもしろかった。五島先生の思い出話の中で出るわけだが、まさに「五島正規死して、新たな人間関係をつくる」といえる。幾つかを紹介しておこう。

 

1)山本有二農水大臣に、安倍首相の「ハマグリ虚言」を追及!

 10年ぶりに山本農水大臣に会った。五島先生とは平成2年の総選挙が初当選の仲である。私が安倍首相の施政方針演説で「野中兼山・ハマグリ養殖でいまでも高知が潤っている」の虚言は、山本農水大臣が教えたのか、と冗談で攻めると、「私じゃありません。出入りのコピーライターからの話」とのこと。私が「閣議決定する文書だよ。重大な問題だ。水産関係の山本大臣の責任でもある。取り消すべきだ」と注文を付けると、「先輩は相変わらず厳しいですな」と、山本大臣は頭を抱えていた。

 

2)阿部知子に誉められた

「グローバル・ミリタリー・キャピタリズム」の造語

 阿部知子といえば、民進党所属の衆議院議員で、東大医学部卒の女医として知られている。五島先生とは医師仲間で社会党時代からの同志だった。会場の来賓席が隣で、2人だけでヒソヒソ話ができた。「五島先生が時々平野さんの話をしていましたが、どんな関係があったんですか」とのこと。私が、三親等内で医師が5人、歯科医が3人という医系家族の関係で、政治とは別に以前から親しかったと説明し、五島先生が亡くなる2ヵ月前、電話で政治に行方を心配して「何かあったら阿部先生と話してくれ」と、遺言のような話があったことを言うと、しんみりとなった。

 これまで私は阿部さんとは話をしたことがなく、五島先生がこういう形で出合いをつくってくれたかと驚いた。いまの政情が話題になったので、私が「集団的自衛権容認で憲法9条を葬った安倍政治」について、これで世界中が「グローバル・ミリタリー・キャピタリズム」の輪が完成した。マルクスは幕末の日本開港を「資本主義の輪がつながった」と言ったが、同じ歴史的意味があたらしい定義です」と、協力を約束してくれた。

 

(横路孝弘元衆議院議長との懇談)

 横路先生との再会も久しぶりで、10年ほど前に高知市で五島先生の会合で会食して以来であった。父上の節雄先生が園田直衆議院議長と親友で、その時期に急死され、園田副議長の指示でさまざまなお世話をしたのが、半世紀以上前のことであった。五島先生の関係者が夕食を兼ねた懇親会の場をつくってくれた。話の中心は最近の国会審議問題であった。

 私からは「60年安保時代」の社会党横路節雄氏等の強烈な質問・審議力が、岸信介首相が強行した「日米安保改定体制」を封じ込めて、平和路線を護れたのだ。その意味で現在の野党の議会主義への発想に問題ありと指摘しておいた。

 

〇 日本人と『憲法九条』 6

(憲法9条の法源とは何か)

 

 憲法9条の「戦争の放棄」を日本人が受け入れて70年となる。この70年間、日本は「戦争」というものをしていない。明治維新で近代化した日本は、太平洋戦争で敗戦するまでの77年間、外国と事実上の戦争を行ったのは5回にのぼる。

 新憲法になって70年間、世界が平和だったわけではない。「9条を改正して再軍備をすべし」、との米国の圧力をはねのけて戦争に参加しなかった事実は貴重である。しかし、9条の解釈や運用に、国際政治の中で問題があったことも事実である。

 この憲法九条を護ろうとする、日本人の無意識(深層心理)を形成した時代が徳川体制であったと、哲学者の柄谷行人が論じていることは何度も説明したとおりである。確かに関ヶ原の合戦が終わり、慶長8年(1603年)に家康が江戸に幕府を開き、同20年に夏の陣が終わると、応仁の乱(1467年)から始まった戦国時代が完全に終わる。これをマクロに考えた場合、徳川体制が「戦争放棄」の思想を歴史の流れの中に形成したといえよう。その意味で「柄谷理論」の通りだと思う。唯、私はそれだけで満足できない。

 人間と戦争(武力による争い)は切っても切れないものである。人間に欲望本能があるかぎり、争い(戦争)は人間の業である。「徳川体制に憲法9条の先行形態がある」と論じることは、憲法9条の法源は徳川体制にある、ということになる。この「法源」という言葉が、最近の法学教育でほとんど無視されているが、憲法の基本原理についての法源を無視していることに、今日の憲法冒涜現象の原因がある。念のために「法源」とは、法が妥当として存在する根源のことである。

 その意味で憲法9条の法源を究明しようとするならば、徳川体制が成立する中で具体的に「戦争の放棄」という考え方を、家康を中心に徳川体制づくりをした人たちの中で、それを体制の信条とするできごとがあったかどうかを検証する必要がある。さらに、徳川体制に至る日本社会の歴史の中で「戦争の放棄」という思想信条が存在したかどうか、存在していたなら、それは何かこれらの究明を行わなければならない。もとより、歴史学の専門家でない私が、これに挑戦しようとするのだから乱暴な話であることをお断りしておく。

 

(「戦争放棄」は「命と生活」を護ること)

 憲法9条を文言だけで解釈すると、その対称が「戦争」という国家の行動に限られ法源を見失うことになる。憲法の構成をみても、前文があり第一章が「天皇」である。これは国体の根本であり、別枠としておこう。

 第2章が「戦争の放棄」である。これは憲法の根本であり何のための規定かというと「国民の命と生活」を破壊する「戦争」だという認識をすると、憲法そのものの中心に位置するものであることがわかるであろう。

 という視点に立って、徳川体制をつくる過程で「命と生活を護る」ことについて、特筆されるできごとが何かなかったか。これを検証することが大事ではないか。

 

(『慶長の法難』の勃発)

 古代からの日本人の「生命観」という大問題は、ここでは触れないことにしたい。徳川体制における「人間の生命観」については、徳川家康の「生命観」について論じるべきだが、これは「お万の方」の影響をうけているので、お万の方の「生命観」を理解しなければならない。『慶長の法難』といわれるものが、その対象となると言うのが私の見方である。

 関ヶ原の合戦も終わった慶長6・7年頃、家康の側室・お万の方は、京都伏見城にいて、京都在住の日蓮宗の高僧たちに〝法華経〟について教えを受けていた。その時代の世相は、関ヶ原の合戦後の武士たちの無惨な姿や、暮らしに悩む庶民がいたるところに溢れていた。お万の方は自分の幼少期の苦労の日々を思い出し、和らいだ世の中の到来を、師の日遠上人から教えを受けていた。

 慶長12年(1607年)、家康は修築がなった駿府城で隠居することになり、お万の方も2人の子息と一緒に城に入ることになる。家康とともに愛児と水入らずの暮らしができることになる。その頃、〝法華経の恩師〟日遠上人も身延山久遠寺20世として、駿府の近くで布教していた。お万の方にとって喜びの日が続いていた。ところが慶長13年11月、法華経だけでなく、身延山や日蓮宗の存立を揺るがす重大事件が起こる。それが『慶長の法難』である。               

 (続く)

「日本一新運動」の原点―358

◇予備会員(会費切会員を含む)への配信は周回遅れで配信します。

  当ブログも同様に周回遅れで掲載しています。

 日本一新の会事務局

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

            日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 新著『角栄―凄みと弱さの実像』について!

 

 世の中には不思議なことがあるもので、昨年10月末『野党協力の深層』(詩想社新書)の執筆が最終段階だった頃、日本一新の会事務局に一通のメールが届いた。そこには「出版企画書」とあり、ホメ殺しに近い文面が綴られていて、出版社は彼の(株)ベストセラーズで、「角栄本」の執筆依頼であった。躊躇する私の尻を叩く事務局にも乗せられて編集者に会った。

 担当は書籍編集部の山崎実氏で、執筆の了承もしていないのに、会うと同時に発売日を2月末に決めているという。無茶苦茶な話だとは思ったが、間を置くと、世間知らずの事務局が何を言いだすか〝危険〟なので、これも何かの縁だと観念して応じることにした。『野党協力の深層』にはそれなりの反響があって、「角栄さん」の話には、野党協力支援者の関心が高く、執筆には参考になった。まずはひと足先に『まえがき』と『おわりに』をメルマガ読者諸兄に紹介しておきたい。

 

はじめに

 最近の異常な〝角栄ブーム〟が、角栄は「天才」というイメージを作り上げました。本書の目的は角栄の「凄みと弱さの実像」を追跡して「角栄は天才ではなかった」ことを論証するためです。角栄を「天才」とすることは堕落と腐敗を続ける日本の政党政治、その文化の本質を危うくします。政治の進歩は、国民とその代表者の不断の努力の積み上げで可能となるものと言えるからです。

角栄が総理の座を降りた翌年、1975(昭和50)年の春、当時、私は前尾繁三郎衆議院議長の秘書でしたが、前尾議長の用向きで田中事務所を訪ねた時角栄と世間話をする機会がありました。

「田中先生は、瞬時に会った人の心を掴む〝天才〟と言われていますが具体的にはどんな策があるんですか」と私が聞いたところ、角栄は、

「策なんかありゃせんよ。努力だよ、努力。人の心を掴むには事前に調べごとをしておくんだ。何でもよい、相手がもう忘れてしまったような驚く話を出すんだよ。そのためには調査とそれを記憶する努力がいるんだよ」

 と角栄は静かに語り、私はその言葉の「重さ」にびっくりしました。そういえば、角栄は総理になっても変わることなく深夜に起床して、翌日の重要政務の資料を検証していたようです。確かに角栄には、優れた記憶力・判断力・直感力がありました。しかし「天才」という性質のものではありません。角栄のこれらの能力は、貧しい馬喰の家に生まれ、人が生きていくのに限界といえる劣悪な環境で育ち、高等小学校卒業という学歴で、戦前・戦中・戦後の日本の厳しい社会で生き抜くため、角栄自身が想像を絶する努力をする中で培った力でした。

 それだけでは角栄の活動力は語りつくせません。角栄を死に物狂いの努力に駆り立てる何かが会ったはずです。それが角栄を総理という栄光の座に押し上げた《土着縄文国津神文化》です。この「土着文化」が、敵対する《官僚弥生天津神文化》によって制圧され、角栄は政治の舞台から葬られたと私は思います。角栄の出生地は、旧地名で、新潟県刈羽郡二田村という《裏日本》の雪深い貧村です。古代から「艮(うしとら)」と呼ばれる地方です。

広辞苑などで「艮」は、東北とか鬼門という差別用語で説明されています。これを地図で考えてはなりません。明治憲法下の官僚政治は、東北はむろん列島の僻地住民や都市の棄民を犠牲にして行われました。

 敗戦で誕生した「日本国憲法」は、人間の自由と平等を目標として生存権を保証するものでした。角栄は「艮」の地霊に導かれ、新憲法の中から「人間の差別や地域の格差を解消するため」に政治活動を始めたのです。そして総理の地位に就き、歴史の中に差別されていた地域や人々に、政治の光を当てようとしたことを、「官僚文化」は許さなかったのです。

「政治は国民生活である」と叫んだ角栄が葬られてから、日本の官僚天津神の支配は「沖縄」をはじめ日本の過疎地、そして大都市の棄民地を「艮」に塗り変えさまざまな格差社会を作りました。しかし、今や日本中が、アメリカの「艮」の地になりかねない状況です。それを阻止するためには、今こそ国民の「いのちと暮らし」を護り発展させる、角栄が「日本列島改造論」で残した課題を新たに「新日本列島改造論」として策定しなくてはなりません。そのためにも角栄の「凄みと弱さの実像」の検証が必要なのです。

 角栄が政治家として主に活動した昭和20年代から50年代の日本は、敗戦の復興から再建そして奇蹟の経済大国となる大激動時代でした。当時の倫理観や法制度の元での角栄の行動を、単純に評価も批判もできません。大事なことは、角栄の「金銭感覚」、「女性観」、「政治観」などを戦後の日本の歴史に位置づけ正確に知ることです。その上で角栄が発想した政治理念や政策のどの部分を現在の日本の再建

に生かすべきか。

 これが今、私たちに与えられた課題だと思っています。

 

 

おわりに

 昨年7月、私は『田中角栄を葬ったのは誰だ』(K&Kプレス)という著作を刊行しました。ロッキード事件の時期に、前尾繁三郎衆議員議長の秘書だった私の体験や情報を駆使して執筆したものです。

 目的の第1はこの事件は「国家権力が捏造した犯罪」で、その後の日本は米国への従属をよしとしない政治家を排除するようになったことを論証するためでした。第2は「ロッキード事件」の再現が、「小沢陸山会事件」であったことを批判的に論じることでした。陸山会事件は冤罪が明らかになりましたが、事件の捏造は麻生太郎自公政権から始まり、なんと、民主党へ政権交代した菅直人政権までが司法と策謀して、小沢一郎を排除しようとした異常で異様な事件でした。

 その後、日本政治の状況は「権力の犯罪」と言える事件が続出しています。「原発をめぐる諸政策」、「沖縄辺野古基地の強行建設」、「集団的自衛権行使容認の解釈改憲」、「アベノミクスによる日銀の暴挙」等々です。問題は安倍晋三自公政権の暴政を、国民の立場で批判すべき巨大メディアのほとんどが、政権の〝旗振り〟をやっていることです。私はこれを日本の危機として取り上げました。ところが私の「角栄本」は、ごくわずかな人たちから評価されましたが、巨大メディアから無視され、十分な成果を挙げることはできませんでした。悔いを残して悶々として夏から秋へと季節の移りの中で過ごしていました。 

 そんなところに2016年10月28日、KKベストセラーズ書籍編集部の山﨑実氏から書面が届きました。珍しく7月刊行の『田中角栄を葬ったのは誰だ』を高く評価してくれた上で「角栄本は巷にあふれているが、実像を描いたものは少ない。角栄氏の政治活動だけでなく人間論を含めて、角栄の凄みと弱さの実像をかけるのは、貴方だ」と誉め殺しの甘言に誘惑され、応じることになりました。

 発刊が2月末と決められており、膨大な数の「角栄本」と資料・情報を限られた時間に検証し整理することで、編集部のスタッフには散々のご苦労をかけました。一応の完成をみることができましたが、これは「人間角栄論」の出発点だと思っております。

 この機会に、本書がまとまっていく間に不思議な体験をしたことを記しておきます。私は時々、ご縁があって他界された政治家たちから夢でいろいろ示唆を受けることがあります。一時、「夢日記」を付けていたことがありました。

 昨年末、私の政治課題は「野党選挙協力の実現」です。役割は、国民や野党にある「小沢アレルギーと共産党アレルギー」の解消です。その方策として昨年12月、『野党協力の深層―共産党の大転換と自由党の再起動―』(詩想社新書)を刊行しました。内容は、政権交代への小沢自由党代表の腹構え、そして私が関わった共産党の国会での秘話でした。この著作に野党や市民から批判や評価が押し寄せるようになりました。丁度、本書の制作時期と重なりました。そんな時、角栄が夢に出てきたのです。

「わしの過去のことを穿くって何になる。わしの考えや活動の中で、これからの日本に役立つことを大胆に語れ!」と、発破をかけられました。

 私は昨年の暮から本年1月にかけて、首都圏で5回ほど「野党協力の必要性」の講演をする機会がありました。多くの市民の関心は「角栄なら今の日本をどうするか」です。私は話の最後で、「角栄は、自民党幹事長時代〝戦争放棄を謳っている憲法第9条は改正されることはない〟と公言しています。角栄は『日本列島改造論』の結びで〝日本は軍事大国になってはならない。公害・過疎過密・世代間の断絶などをなくし、《人間復権》の新しい時代を作ることに総力をあげるべきだ〟と論じています。これが、

戦後私たちが培ってきた保守本流の考えです。大転換した共産党とどこが違いますか。これが選挙協力の精神です」と叫びます。

共産党支持の人たちも喜んで拍手してくれます。角栄の《人間復権》の精神は党派を超え、世代を超え、今も民衆の心に生きています。

 今回、本文の構成に大変な労力をかけて丁寧に進めていただいた横関寿寛氏、および書籍編集部の山﨑実氏には心より感謝を申し上げます。そして私の夢の中で、また角さんが現れては私にこう語りかけてくると思います。

「平野、あの世には何も持ってけないぞ。なら、おまえのすべてを日本の将来のために役立ててこい。生きろ!」 日本の民衆に角さんの声を捧げたいと思います。

 

                      2017年2月

                        平野 貞夫


「日本一新運動」の原点―357

◇予備会員(会費切会員を含む)への配信は周回遅れで配信します。

  当ブログも同様に周回遅れで掲載しています。


              日本一新の会事務局

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

            日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 トランプ・安倍の「憲法違犯・首脳会談」

 

 断っておくが、私は決して反米主義者ではない。むしろ真面目な親米主義者である。我が故郷のジョン万次郎は19世紀の中頃に太平洋を漂流中に、米国の捕鯨船に救助された後、米国で近代教育を受けて帰国し、日本の近代化に尽力できた。その恩義に応えるため、万次郎漂流150年を記念して『ジョン万次郎の会』をつくった。

 米国との真の友好関係をつくるため、小沢一郎さんが会長になることに拘り、同じ志を持つ人たちの協力で『財団』として四半世紀となる。市民中心の「草の根交流」で、1年交代で両国での「草の根サミット」を催し、約5万人近い市民の交流を実現している。それを契機に米国各地に、一般市民との「心の絆」が創造できている。国と国、企業と企業の友好関係の向上も市民の友好が前提である。

 かって田中角栄さんから「米国は地球を縮小したような国だからなぁ」という話を聞いたことがあるが、まったくそのとおりだ。地球に住む人間の良いところも悪いところも、すべてを持つ合衆国連邦だ。トランプ新大統領出現に至る経過を見てもよくわかる。

 

 さて、トランプ大統領と安倍首相の関係で共通点があることをお気づきだろうか。それぞれの国の基本となる憲法に違反していることだ。トランプ大統領の「入国禁止大統領令」は、米国憲法修正第1条の「信教の自由を侵害してはいけない」、他に違反していることについて、これから憲法裁判が始まる。専門家の大勢は、トランプ大統領の敗北確実との見方だ。

 一方、安倍首相は「集団的自衛権行使容認」で憲法9条の解釈改憲を行った。これは司法制度の関係で、日本では裁判の対象にしないとの慣行で放置されている。法理として、憲法の改正手続で行うべきことは当然のこと。今後この解釈改憲に伴う安保法制が実行される段階で具体的問題が発生すれば「違憲訴訟」が提起されることになろう。いずれにせよ、トランプ・安倍会談は「憲法違犯・首脳会談」であったことを指摘しておきたい。

 仮に、米国の最高裁判所で「入国禁止大統領令」が、トランプ大統領側の敗北と決定した場合に、トランプ氏が大統領職を続けることができるか否か、大問題となろう。そんな人物に「追随外交」で、国を売る人物を讃える巨大マスコミなど、日本は大事なことで狂っている。

 

(トランプのマジックに遊ばれた安倍首相!)

 

 トランプ・安倍首脳会談について結論をいえば、トランプのカードマジック(手品)で、内外から追い込まれたトランプ大統領にも理解者がいることを世界にPRできたことだ。トランプ大統領にとっては絶好のチャンスであったようで、ネコなで声で安倍首相に接するトランプ氏の芝居がかった動きに、安倍首相ならず、日本のマスコミこぞって弄ばれたといえる。

 せっかくの会談の内容だが、レストランのメニューぐらいのものは出るだろうと思っていたが、出てきたのは〝新聞広告レベル〟で中味は皆無。マスメディアは、安保問題で「満額回答」などという報道を流しているがどうかと思う。従来の米側の方針は何ら変わっていない。選挙中にトランプが仕掛けた「脅し」に安倍政権がおののいていただけではないか。

 日米安保体制の根本は日本列島が地政的に米国を護っていることにある。巷間では米軍が日本を護る仕組みと言われるが、冷戦時代には、日本に米軍を駐留させることで米国の安全保障に役立ったのだ。さらに米国の東アジアへの影響に貢献したのだ。そのために日本はどれだけの負担と、犠牲を払ってきたか。日本安保体制は、国連憲章の目的に沿って機能すべきものと、日米安保条約の前文に書かれている。これをトランプが否定したりするのであれば、日本として国連中心の安全保障体制を考えると主張すればよい。

 経済貿易問題は、安倍首相が直接やりとりすることではない。麻生副総理とペンス副大統領で対話することになったが首脳会談の合意事項にする問題なのか、手品にもならない話だ。

 最後に、気になることがいくつかあった。沖縄の辺野古問題だ。「唯一の解決策だ」と米大統領に言う話か。日本の利権ビジネスの代弁ではないか。それと日米同盟のさらなる強化の中味だ。米国に追従してさらなる軍事大国化により、トランプの世界支配を手伝う宣言ではないことを祈る。

 


〇 日本人と『憲法9条』 5

(家康の側室「お万の方」に着目した経緯!)

 

 哲学者・柄谷行人の『憲法の無意識』(岩波新書)は、憲法を人間社会の深層心理学的立場から分析した名著である。本項で何度も述べたが、憲法九条の先行形態を「徳川体制」としたことは卓見だと思う。しかし「徳川体制」の中で、どういうプロセスで形成されたかについては論じてはいない。これから検証する課題かも知れない。

 柄谷氏の示唆を参考にして、徳川体制をつくった家康について考えた場合、家康の精神面に影響を与えたのが側室の「お万の方」であるとの情報を、平成21年ごろに知っていた。その理由は、この時期に坂本龍馬について執筆しており、江戸の千葉道場で、「北辰流」の剣術を学んでいたことばかりが知られていることに疑問を持つようになった。龍馬が千葉道場で学んだのは、剣術というより「北辰妙見法力」という、人間が生きる上での智恵というか、世渡り術であったことがわかった。

 この「北辰妙見法力」とは北極星と北斗七星を「北辰」として、信仰の対象とするものである。古代から「民衆の福寿」を実現する星信仰として、庶民から親しまれていた、家康が側室の「お万の方」から妙見信仰の影響を受けたことを知ったのは『妙見信仰の史的考察』(中西用康著・自費出版)からであった。

「家康・お万の方」の長男・頼宣は紀州藩主となり、次男・頼房は水戸藩主となる。徳川光圀こと水戸黄門は水戸藩主・頼房の子息で「家康・お万の方」の孫である。祖母の影響で熱心な妙見信仰で知られ、「民衆の福寿」を徳川体制の基本にしたことで知られている。フィクションとはいえ、「水戸黄門物語」は現在でもテレビドラマなどで、庶民の命と暮らしを守った説話として毎日のように放映されている。

 第8代徳川吉宗は、紀州2代藩主光貞の4男だから、「家康・お万の方」の曽孫に当たる。「享保の改革」で徳川体制の立て直しをしたことで知られている。吉宗も妙見菩薩を信仰し、大岡越前(大岡忠相=江戸南町奉行)とともに江戸庶民のため幕政を改革した。「暴れん坊将軍」というテレビドラマも毎日のように繰り返して放映されているが、現代の民衆の深層心理の中に徳川体制の残存が生きているからであろう。

 

(「お万の方」の出生と日蓮聖人の影響)

 

「お万の方」についての研究は少ない。その中で『女心仏心』―養珠院お万の方の生涯―(戸田七郎著・日蓮宗新聞社)から要約しておきたい。

 天正5年(1577年)、お万の方は南房総勝浦で生まれた。父は勝浦城主の正木頼忠、母は小田原北条の北条氏隆の娘で後の「智光院」である。時代は戦国の末期であったが、幼年まで無事に成長する。この勝浦は日蓮聖人の生誕地・安房小湊の浦に近く、お万の方は生まれながら、日蓮聖人の聖地の文化で育ったことが大事なポイントである。

 勝浦市に鎌倉時代から続く『惠日寺』という日蓮宗の名刹がある。現在の池内円海住職から教えてもらったことだが、お万の方は幼少から日蓮の教えを当寺で受けていたとのこと。勝浦には、「お万の布さらし」という伝説がある。これは勝浦に断崖絶壁の景勝地の口伝で、お万14才のとき、戦乱で勝浦城が落城し脱出のとき、40メートルの断崖を松の根に結びつけた晒し布を頼りに海に降り、海路小舟で房州に逃れた話である。

 この伝説をめぐって、天正8年か18年か論争があるが、それはさておき、お万の方の苦労はこれから始まるといわれている。勝浦から逃れたお万の方は、房州から離れ母方の故郷・小田原で暮らすようになるが秀吉の小田原攻め落城の中で河津城に逃れる。ここも戦場となり、お姫様の生活から流浪の身となって伊豆諸国を命がけで放浪する。その間のお万の方の気強い精神を支えたのが、日蓮の教え「法華経」と妙見信仰だったといわれる。

 奇蹟的な縁で家康と出合ったのが、文禄2年(1593年)といわれるが、その間の歴史的事実は明確でない。その後、関ヶ原(慶長5年・1600年)、徳川幕府の成立(慶長8年・1603年)と歴史が展開し、徳川家康の政治理念を変えるというか、向上させるといっても良い事件が起こる。それは、慶長13年(1608年)に発生した『慶長の法難』といわれる家康の宗教弾圧である。

(続く)

プロフィール

nipponissin1

Author:nipponissin1
   代    表 : 平野 貞夫
   顧    問 : 戸田 邦司
   事 務 局 : 大島 楯臣

カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
動画
 
最新記事
リンク
一新のトランク
最新コメント
カテゴリ
月別アーカイブ
RSSリンクの表示
Translation Tools
QRコード
QR
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!
Powered By FC2ブログ