「国民の生活が第一、自立と共生、政治の根本について議論する広場」

「日本一新運動」の原点―394

日本一新の会・代表 平野 貞夫妙観

 

〇 時局妙観

 混迷の第48回総選挙の直後、永田町に旋風が吹き荒れている10月25日(水)の夕刻、麻布の「東京さぬき倶楽部」で〝変わった〟というより大事な会合が開かれた。直接「時局」とは関係ないが、戦後の日本にこんな時代があったことを知ってもらいたい。

 

(中国大使館 沈建国参事官歓送会にて)

 日本で2年半の大使館勤務を終えて、交友のあった人たちが開いた会合だ。呼びかけ人は、村山首相談話の会の藤田理事長で、ほとんど中国大使館と付き合いのない私だったが、懇請されて顔を出した。出席者は香山リカ立教大教授、岡本厚岩波書店代表取締役社長、鳥越俊太郎、高野孟、植草一秀氏ら30名程であった。

 藤田理事長の開会挨拶、来賓の挨拶と左派らしい理屈っぽい話が続き、沈参事官が返礼の挨拶を終えたところで突然、私に乾杯を兼ねて何か中国に注文をつけろと藤田理事長から指名があった。驚いたが、たまたま機会があれば40年前にある中国の要人からの手紙を沈参事官にそっと手渡そうと思っていたのでそれをタネにして挨拶をする羽目になる。

 

○平野 藤田理事長のご指示には逆らえませんので乾杯の音頭をとらせていただきます。その前に、先ほど藤田さんの挨拶の中で、沈参事官の生まれた年を1978年といわれたと聞きましたが、確認したいと思います。

 確認できましたので皆さんにお聞きしますが1978年という年はどんなことがあったかご存じでしょうか。(声なし)実はこの年の10月に「日中友好平和条約」が発効しています。沈さんが生まれた年ですから、日中友好のためにこの世に現れたといえます。それから6ヵ月して、昭和54年4月に中国の議会の役割をしている「全国人民代表大会」の議員団が、衆参両院の招待で来日しました。団長は周恩来未亡人の鄧穎超副委員長で、30人の議員で構成されていました。当時、私は衆議院事務局委員部の課長補佐で、全人代一行の日本主要都市への友好訪問の案内役を勤めました。大阪の案内が最終日となり鄧穎超団長主催の事務局職員慰労会を開いてくれました。そこで鄧穎超団長から私に話されたことが大変面白いもので、要点を紹介すると、

 

○鄧団長 ・・・・・(通訳が通訳しない。鄧団長、注意して催促する)

○通 訳 貴方に大変失礼な話なので・・・・・。

○平 野 気にしませんから通訳してください。

○鄧団長 日本に一週間いて貴方の顔や態度を見て、きっと両親か父か母が中国人だと思いますが、如何ですか。

○平 野 私は高知県生まれで日本人です。父は他界しましたが、母は鄧団長と同じ歳で健在です。

○鄧団長 いやどう考えても貴方には中国人の血が流れています。貴方の仕草は中国人です。

○平 野 2千年ぐらい前なら私の両親は間違いなく中国人だったと思います。

○鄧団長 日本人にしては面白いことをいいますね。その発想が大事です。(この後、「全人代」を近代議会制を参考にして改革したいとの意向があった)

○平 野 全人代議員団が帰国直後の4月26日の日付で、鄭重な手紙を頂きました。私は単なる礼状だと思って、中国語を知りませんので、40年間放置していました。よく考えますと40年昔の日中関係の雰囲気を知るために何かの資料になるかと思いまして、沈参事官に手渡すつもりでコピーを持参しました。お受け取りください。

○沈参事官 ただ今拝見しましたところ、これは外交文書的性格があります。40年前の日中関係の様子がよくわかる貴重な資料です。

との説明があり乾杯となった。参加者一同は喜んで盛り上がった。

 

(毛沢東主席の『矛盾論・実践論』について)

 もうひとつ興味ある話だが、沈参事官と鳥越俊太郎氏と私が隣り合っていて懇談の中でのこと。久しぶりの鳥越氏との歓談の中で、昭和30年代の学生時代の話となった。

 

○鳥越 80歳を過ぎたとは思えない。学生時代のことで何が一番ためになったか。

○平野 原水爆禁止運動でレーニン平和賞をもらった安井郁教授のゼミで2年間、毛沢東の『矛盾論・実践論』を学んだことだ。時々安井宅で東大時代の教え子と一緒に読書会を開いたが、当時、進歩的文化人の中に入っていた三島由紀夫さんがいた。

○鳥越 驚いた。『矛盾論・実践論』とはね。

○平野 衆議院事務局の仕事で役に立ったよ。与野党の対立闘争を解決するのに、矛盾の主要な側面を見つけて正常化のシナリオをつくるなど、いろいろと役に立った。ところで沈さんいま中国で『矛盾論・実践論』はどう位置づけられていますか。

○沈 日本で貴方たちの世代が『矛盾論・実践論』を学んで国会運営などで活用していたとは知りませんでした。重要な話ですよ。実はいま、中国では新しい動きとして毛主席理論の再活用という指導が行われています。その中で『矛盾論・実践論』が中心です。

○平野 戦後の日本では、革新派が西欧の社会主義や共産主義の方法論で政治を行いました。保守良識派の多くの愛読書のひとつが『矛盾論・実践論』でしたよ。

○沈 参考となる話を聞きました。

 

〇 国会つれづれ  17

 9月28日発信のメルマガ389号から5回にわたって休んでいましたが、再開します。

 

(「黒い霧解散」余談)

「国会つれづれ16」で説明したとおり、昭和41年11月30日に召集された第53回臨時国会は、自民党政権下で多くの疑惑事件が発覚し、第一次佐藤内閣は野党の解散要求に追い込められる。衆議院の野党側は議長・副議長を使って佐藤首相に解散を明言させようとする。その中で佐藤首相は「解散権は内閣にある。国会は文句をいうな」ということで臨時国会が終わった次の日に自民党両院議員総会で、佐藤首相が次の常会冒頭に解散を示唆するわけです。典型的な「話合い解散」といえる。

 今回の「審議なき冒頭解散」について安倍首相は「三件の先例があり、問題はない」と、テレビ朝日の党首討論で正当化した。黒い霧解散といわれる昭和41年12月27日の常会召集日冒頭解散は、三件の内のひとつだ。これは前述したとおりの「話合い解散」で、憲法53条の「少数者の権利」を侵害して、議会民主政治を安倍首相が抹殺したこととは異なる。

 安倍首相のテレビ朝日での虚言に反論するため前号のメルマガ393号で紹介したが、10月16日に発信した私のツイッターのインプレッションは、総選挙が終わって一週間過ぎても増え続け、29日午後10時現在で約32万9千通となった。憲法学者からの解散違憲論はこれまで全くない。

 一方、報道によれば、安倍首相はこれからの国会運営について、「国会の発言時間を各派割りとし、与党の発言時間を多く、野党の発言時間を縮小することを検討せよ」と、萩生田幹事長代行に指示したとのこと。

 議会政治とは「少数派の発言を保証する」ことが基本中の基本であることを知らないようだ。総選挙での議席数での圧勝に気をよくして、「自民党を支持した人たちは、国会での自民党議員の発言を待っている」とも語っているとのこと。「少数者の権利」を抹殺して憲法五十三条に違反した憲法犯罪を憲法学者らが黙認するからこのような流れになるのだ。私が危惧した「アベ・ナチノミクス」が活動し始めたといえる。

「国会つれづれ」が、つい「時局妙観」の話になってしまった。話を戻そう。

 昭和41年12月17日の常会召集日冒頭解散で園田副議長は当然に衆議院議員の職を失うことになる。私も一年間にわたる副議長職を辞めることになる。解散となり、園田副議長が副議長室に戻り、私の手を握り「本当によく尽くしてくれた」と礼を言われた直後佐藤首相秘書官から「総理から官邸に来て欲しい」との電話があった。「最後の仕事と思って、同行してくれ」といわれ一緒に官邸に行った。

 首相室に入り10分くらいして出てきた園田前副議長は上機嫌で「佐藤総理から、世話になったと特別な言葉をもらった。君にも頑張ってもらった・・・」と涙ぐんだ顔で話しかけられた。 二人で記者たちで溢れる廊下を歩いていると園田さんの内ポケットから祝儀袋が見えている。多分、佐藤首相からもらったものだろう。「内ポケットに気をつけてください」と小声で伝えると、一瞬緊張した園田さんは人目につかないようにして、「預かっておいてくれ」と、私に祝儀袋を手渡した。感じでは、300万円ぐらいの現金が入っていた、と思う。        

(続く)

プロフィール

nipponissin1

Author:nipponissin1
   代    表 : 平野 貞夫
   顧    問 : 戸田 邦司
   事 務 局 : 大島 楯臣

カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
動画
 
最新記事
リンク
一新のトランク
最新コメント
カテゴリ
月別アーカイブ
RSSリンクの表示
Translation Tools
QRコード
QR
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!
Powered By FC2ブログ